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追悼 布施孝之キリンビール社長(2)リストラ、東日本大震災…小岩井乳業再建への道のり

大阪支社長就任2年目で結果を出した布施さんには、即座に次のミッションが与えられた。

2010年3月、小岩井乳業への出向が告げられ布施さんは社長に就任する。

険しい小岩井乳業再建への道のり

 「小岩井」は岩手県盛岡市の北西・岩手山南麓に位置する約3000ヘクタール(山手線の内側の半分)の広さを持つ民間総合農場だ。かつては火山灰土におおわれた酸性で不毛の土地だった。この地を開墾し、土壌改良から始め、農場化に努めたのは日本鉄道会社小野義眞副社長、三菱社の岩崎彌之助社長(岩崎彌太郎氏の弟)、鉄道庁の井上勝長官の3人。3人の苗字の頭文字を並べて名付けられたのが「小岩井」の由来である。

 50歳まで一貫してキリンビールに籍を置いた布施さんは、乳業業界の門外漢。しかし「何が起ころうとも社内で起こったことの全責任は自分が取る」と覚悟を決めた瞬間、気持ちが楽になった。「全社員のパワーを最大限発揮できれば、業界には無知でも必ず結果を残せる」――根拠はないけれども自信はあった。

 着任する前の小岩井乳業のイメージは、「上質・高品質」というもの。だが、低収益構造で負債が資産を上回っていた。

 社内の状況を知り、リストラクチャリング(事業の再構築)に乗り出さざるをえないところまで追い込まれていることが判明。5月末から全社員を対象に開いたリストラに関する説明会は修羅場と化した。
 結局、その時在籍していた525人の人員のうち、希望退職者を60人募った。布施さんは、「やめていただく人に見せられる自分としての誠意はなんであるのか」を突き詰めた。結論は、直筆で3枚ずつ手紙を書くこと。各人のエピソードを織り込み、真心をこめてしたためた。

 リストラを断行して、決起集会を開いた2011年3月11日――。東日本大震災が起こってしまう。以後、半年間にわたって商品供給を停止せざるをえなくなった。布施さんは考えた。「会社の存在意義は平時はなかなか感じないもの。しかしながら、有事こそその社会的意義が鮮明になる。そしてそれこそが訴求するポイントなのではないか」と。

集中化と重点化が再び成功へ導く

 明けて2012年――。長年の売上前年割れの悪循環から抜け出すことができず、活路も見いだせなかった。

 そんななか、布施さんが目をつけたのは、製法の全く異なる「小岩井生乳(なまにゅう)100%ヨーグルト」だ。生乳だけをじっくりと発酵させ、酸味の少ないなめらかなプレーンヨーグルト。小岩井乳業のフラッグシップになるのではと考え、このよさを伝えることに打開策を求めた。「一番搾り」のリニューアル告知戦略と同じように、「小岩井生乳100%ヨーグルト」を中心に戦略を組み立てた。

 「『この素晴らしい商品を出している小岩井乳業ならほかにも凄い商品を持っているはず』と取引先が考えるようになればいい」。

 ところが、TVCMを打つだけの金銭的余裕はない。だから、社員には「ほかのことはやらなくていい。これだけに集中し自信と誇りをもって価値を足を使って市場に伝えてほしい」と激励した。素晴らしい商品を売り込み、実際に売れてくるうちに社員のマインドにも変化が生じた。自信が復活してきたのだ。

 働く社員を幸せにするためには業績の向上が必須だ。では、どのように上げるのか?社員のマインドを上げることが第一だ。そのマインドと戦略の掛け算が業績になる。その際の戦略は、集中化し重点化すること。だんだんと布施さんの経営手法の輪郭がくっきりと鮮明になっていくとともに、小岩井乳業の再建を見事に果たした。

 布施さんは、小岩井乳業の再成長に残りのサラリーマン人生を懸けようと考えた。「小岩井乳業社長がサラリーマンとしてのゴール」と思っていた。(続く)

 

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