創業105年、山梨の老舗スーパーとして全国的にも知られた「やまと」が2017年に経営破綻した。家庭で不要になったレジ袋の買い取り、移動スーパー、ホームレスを正社員として採用するなど数々の奇抜手もあり、地域土着スーパーとして多くのメディアにも注目された。そのやまとが、なぜ倒産せざるを得なかったのか。19年に破産手続きを終えた元社長の小林久氏は著書「続・こうして店は潰れた」のなかで、5つの理由をあげている。上では過剰ともいえる「地域貢献」が飛躍的に売上に結びつかなかったことについて触れたが、下では運転資金に関する失敗を振り返る。
倒産した理由③日銭商売のやり繰りに甘え改革が遅れた
第3に、社内に財務の専門家を置かず、日銭商売のやり繰りに甘えて抜本的な改革が遅 れたこと。「下手な男より女のほうが役に立つ」 。そんな言葉を耳にすることもある。
やまとの本部には、会議と商談時を除いて男性は私だけしかいなかった。来訪者にいつも指摘され、そこでこの言葉が登場する。やまとの男性幹部社員はすべて複数の部門の責任者であり、各店を巡回して指導するスーパーバイザーでもあった。その負担と貢献度はとても大きなものだったといまさらながら感謝する。
私も毎日店舗を巡回していたので、留守のことが多かった。総務は実の妹に任せ、経理 も契約社員の女性が日々入力作業をしていた。事務処理も3名の女性社員、残りはチラシ制作の女性パート3名。ほとんどの来客にお茶出しはさせず、仕事に専念してもらう。そのため社長室には自分で買った小さい缶コーヒーの箱が常備されていた。早く飲み終わるし、そのまま持ち帰ってもらえるからだ。今でも常温の微糖缶コーヒーが好きなのは、その名残りである。
彼女たちは完全週休二日制、残業なし。朝9時に本部が開き、午後5時には施錠される。その後は静かな本部で私が夜まで次のアイデアに知恵を絞る。このメンバーで、最盛 期年商64億円の事務作業を回していた。
入力の済んだ会計帳簿を翌月顧問税理士に見てもらい、営業成績が確定する。私が見るのは「売上高・利益率・利益額・最終利益額」 、この程度だった。どんぶり勘定でも社長にとっては最終利益額だけが重要であり、店舗別や野菜や魚などの部門別成績はすべて担当責任者に任せていた。
調子のいい時期はこれでもいいが、いったん業績が落ち出すと、何が原因なのか、どうすればいいのか、何から始めたらいいのかがわからない。やまとはポイントカードの分析もしていなかったし、ボランタリーチェーンの傘下でもなければ、日頃お世話になっているコンサルタントもいない。ええ格好しいの社長は弱みを見せたくなくないので、人には相談しないのだ。
これでは決断が遅れるのも当然である。売上は加速度を増して降下していく。先代から付き合いのあったメインバンクの地銀とは、経営改善時の「振り子返し」として融資を他の金融機関にすべて借り換えてしまった。
困った社長は信用金庫に駆け込み、信用保証協会の枠を目いっぱいまで使って当座の運 転資金を確保する。月末の支払いに困るときは、その日に合わせて激安のチラシを打って現金を確保するなど、絵に描いたような「自転車操業」である。何が「大丈夫、心配ない、なんとかなる!」だ。偉そうに言っても神風なんか吹かない。すぐに資金が枯渇して潰れるのがオチだ。「大丈夫、心配ない、なんともならないから!」
倒産した理由④ 逆境からの成功体験が今も通じると信じた
第4に、代替わりの逆境から復活した成功体験(赤字の店舗の閉鎖、経費や仕入れの見 直し)が、現在でも通用すると信じてしまったこと。大赤字で先代から経営を(無理やり)引き継いだとき、私は「なんとかしなければ会社 が潰れてしまう」という恐怖心からさまざまな改革を試みた。
メインバンクを変更、メインの仕入れ問屋も変更、わがままだった親戚縁者はすべて解雇。チラシも自社でつくり、折り込み会社には「たくさん入れるのだから安くしろ!」と迫った。家賃も大家さんに頼んで値引きしてもらった。乾いた雑巾をこれでもかと絞るように、ムダな経費を削っていった。
赤字の店舗は残されたお客さんのことなど考えることなく閉鎖していき、贖罪の気持ちからその後の採算の合わない移動販売車や空き店舗への出店に繋がっていく。その結果、当時のやまとが見事復活したことも事実なのだが……。時代はもう昭和ではない。平成を通り越して令和である。街に残る昭和の店は、ジーンズで言えば「ヴィンテージ」ではなく、効率の悪い「ダメージ」仕様なのだ。
いまは欲しい商品は、顧客の選んだ店や方法でいくらでも簡単に手に入るようになった。衣料や食品・家庭雑貨や医薬品などの大手チェーンは日本中に展開し、畑しかなかった郊外には要塞のような巨大ショッピングモールが乱立している。アマゾンで頼んだ本は翌日には届くし、コンビニエンスストアはすでに「国策においてもなくてはならないインフラ」にまで成長した。
すべてのサービス産業が過当競争を消費者に危惧されるほど店舗数を増やしていく。「こんなにスーツ買うのか? こんなに薬や化粧品を使う?そんなに外食しないだろ? マッサージには困らない、床屋も安いし早い!なんだこの商品、100円で買えるの か。いままでの値段はなんだったんだ!」
規模や価格にとどまらず、接客や顧客データに基づく販促も武器にして大手企業は攻めてくる。最近まで出店を阻止してきた田舎の商店街など、隣町にライバルが出ただけでもすぐに経営は傾く。上っ面だけの「地域土着」スーパーは、その標的にされなくてもジリ貧になるのは明らかである。
解決策といえば、自ら申し出て大手企業の傘下に入る、採算割れの店舗はすぐに閉鎖した後、早めに自主廃業の道を探るなどが賢明なのだろうが、私の選んだ道は過去の成功体験の焼き直しとも言える「赤字店舗の閉鎖と経費の削減」だった。
出店して起死回生を狙うことができない状態ではそれしか選択肢がなかった(人に聞けばその他の解決策もあったのかもしれないが) 。そして回復半ばにして資金が途切れてしまった。決断の遅い、その場しのぎの経営をしているような会社の末路は倒産しかない。
倒産した理由⑤ リスケから生じた信用不安を認められなかった
そして最後として第5、リスケや支払い遅延から生じた信用不安を大手問屋が認めなかったこと。その結果、納品停止を予測できなかったことである。売掛金が残っている先が潰れてしまっては、問屋は甚大な損害を受ける。家族的で親子何代にもわたる取引も、しっかり代金を払った上で初めて成り立つものである。
経営改善にあたり、私と指導にあたった専門家は資金繰りをつなぐために、銀行借入金に対する元本返済の猶予を取り付けることができたが、それだけではおぼつかなかったため、当時最大の仕入れ先だった食品問屋にも支払いの猶予(サイトの延長)を依頼して認めてもらっていた。
まことに感謝すべき対応だったが、ここから信用不安が生じ始めた。倒産時、納品を止めた酒問屋は保証金から売掛金をすべて回収し、残額は裁判所が没収した。ちなみにその食品問屋とは共に株式を持ち合う繋がりの深い間柄だった。上場会社の連携は怖い。問屋の考え方も時間の経過や担当者の交代により変化する。そしてどうあれ、このことは人に伝わる結果となる。
会社の数字を把握していた私は、改革途中のよくある話だと承知していたが、他の取引先から新たな保証金の追加や仕入れ金額の制限、取引の終了などの申し入れが続いた。 そして予期せぬ納品停止を迎えることになる。
商品がなければ、それを売って翌日支払う「自転車操業」さえできなくなる。「周りからの情報が入らない、問屋の身にもなれない、会社の危機を予測できない社長の店は納品が止められても当然だ!」その日の売上で翌日の支払いをやり繰りするような会社が、お世話になっている問屋に対して逆恨みするなど言語道断、潰れて然り!
以上、ご理解いただけただろうか?いずれも、ビジネス書にもしっかり書いてある「ヒト・モノ・カネ」すべての分野で危機管理能力が欠如している。こうしてみると「典型的なバカ社長」とご批判を受けるのもよくわかる。
甘やかされて育った跡取り社長は、拙速に変化と結果ばかりを求め、一度失ったら取り戻すことのできない信用や実績をいとも簡単に換金してしまう。前著で「ちゃんと潰れた理由を書け!」とお叱りを受けたが、自分なりに力不足は痛感している。