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#5 ユニー“中興の祖” 家田美智雄さん、「躓きのアピタ」を立て直す

ユニーの“中興の祖”の1人である故家田美智雄さんという流通業界最強のサラリーマン経営者を全6回で振り返る連載・小売業サラリーマン太閤記。第5回目は、驚くべき高コスト体質で4割強が赤字となっていた「アピタ」の事業再構築。売上計画の水増しが明らかになり、計画時点から躓いていた「アピタ」をどう収益事業へと転換していったのか?家田さん流経営術の真骨頂がここにある。

アピタ松任店。外装のトリコロールカラーの意味を家田さんは「最後まで分からなかった」

計画時点から躓いていた「アピタ」

 家田さんは、リストラクチャリング(事業の再構築)の一手目として打った本部人員大移動と店舗人員大異動を電光石火の早業で終えた。

 これと並行して大鉈をふるったのは、次世代GMS(総合スーパー)と位置付けられていた「アピタ」だ。「アピタ」は、昭和60年(1985年)に1号店をオープンして以来、バブル期におけるユニーの出店政策の要と位置付けられてきた。

 しかしながら、業績を確認してみれば、1991年度(19922月期)に17店舗を展開していたうちの7店舗は赤字という体たらく…。

 原因ははっきりしていた。

 高額投資に起因する高コスト体質だ。

 

 改めて過去の出店計画書に目を通してみると、どうしても理解できないことがあった。

「なんで、こんなコスト高の計画が承認されてきたのだろうか?」。

 訝しく思った家田さんは、本腰を入れて調査に乗り出していく。

  すると、組織に根差す腐蝕の構造が浮かび上がってきた。

 高コストのからくりはこうだ。

 まず、上層部が立地や建物構造や店内仕様など出店の大枠を決める。その計画案が開発課や予算課に下りてくる。けれども、上層部案では、逆立ちしたところで、投資額に見合うだけの売上は見込めない。かといって上層部に嫌われたくないので、差し戻せない。

  そこで秘密裏に行われていたのが、売上予算の水増しだ。

 コストに見合う売上を勝手に書き込んでしまうのだ。まったく根拠もあてもない数字を採算が合うように、ただ入れるだけ。架空だから、数字は青天井だ。

 現実的には絶対に届かないのであるが、紙の上のそろばん勘定は整い、出店計画書の体裁は保てた。

 そうしてつくられた計画書が次々と承認されていったのである。

 

 通常、新店への投資は新しい収益を創り出すために行うものだが、「アピタ」は計画時点から躓いていたのだ。

 けれども誰も矯正しないしできない。それが「アピタ」の実態であり、ユニーの実態であった。

 

「もう金輪際、『アピタ』はやらない」・・・

「官僚主義はホントに怖い」。ユニーを蝕んできたものの正体を暴くとともに、家田さんは官僚主義への憎しみを新たにした。

 そんな実情を直視して、社内に向けて宣言した。

「もう金輪際、『アピタ』はやらないぞ!」。 

 ところが、「やらない」ことを明言しているのに、家田さんの顔を見るたびに、ニコニコとすり寄ってきては、「『アピタ』は評判がいいんですよ」と繰り返す社員がいた。

「何を言ってるんだ!」と腹立たしく感じる一方で、「ほんまかいな? もう少し話を聞いてみたい」という衝動もあった。

 そこで、取引先や従業員に聞いてみれば、なるほど、この社員が主張するように「アピタ」は、内部からも外部からも確かに評判がいい。

 よく考えてみれば、それもそのはず。「アピタ」には必要以上のカネがつぎ込まれていたからだ。

 華美な什器や造作は、ユニーの収益にとってはマイナスだが、テナントや取引先からは評価され、百貨店ブランドを導入することだってできた。それらは「アピタ」の集客エンジンになっていた。

 突き詰めてみれば、ダメなのは採算が合わないことの1点だけだ。

「ということは、収支モデルを変えればなんとかなるのでは…」。家田さんの心はぐらりと傾いた。

「アピタ」をやらないと断言したもうひとつの理由は、着任直後に案内された、売場面積11025㎡の大型店舗であるアピタ港店(愛知県)の容姿にあった。

 イタリアの建築家アルド・ロッシが宮殿をモチーフにデザインしたという触れ込みで注目されていたが、その外装と言えば、赤、青、黄色の原色3色でべったりと塗られており、見方によっては品のないラブホテルのようだった。

  それを自信満々に説明された。家田さんは、仕方なくうなずいてはいたけれども、内心では「ダメだこりゃ」と嘲【あざけ】っていた。

 すぐに塗り直したかったが、時すでに遅しで、外装はそのままにせざるをえなかった。まだ変更が可能だった内装については、ムダとみられるところを削り、コストカットした。だが、締めてみれば総投資額は70億円――。家田さんは「これがユニーの墓標になってしまうのだろうな」と暗い気分になった。

 

家田さん異例の「現行不一致」

  ところが商売というのは分からない。

 199310月、アピタ港店を開けてみると、家田さんの予想は大きく外れた。

 スタートダッシュを決めると騎虎之勢を保ったまま売上を積み重ね、翌94年度(19952月期)には約145億円を売り上げ、あれよあれよという間にユニーの1番店になってしまったのだ。

  アピタ港店の快進撃を目の当たりにして、遂に家田さんは決意する。

「やっぱり、『アピタ』は投資が大きすぎただけだ。小さな投資で利益が出るなら『アピタ』でいい」。

 家田さんは、「言行一致を貫く」と従業員からの評価を受けていたが、この時だけは前言を撤回し、豹変したのである。

 家田さんは「アピタ」の再開については、「私は変節漢で人の意見でコロコロ変わる」と自虐的に話していたが、見方を変えれば頑固さと柔軟さが同居していたともいえる。

 ただ、外装のトリコロールカラーについては、いつまでも理解できなかった。

 でも、「お客さまは低投資の広く安い店舗だけでは面白みがないのだろう。お客さまは常に正しい」と思い直し、「売れるのならば、この色を塗れ」と、以後、墓標とまでバカにしたどぎつい原色が「アピタ」の標準外装になった。

  こうして復活が決まった「アピタ」――。その改革の要諦は、投資額をいかに落とすかの1点のみだ。

 そこで何にカネを使っているのかを改めて調べた。

 すると、塗り天井や豪華な照明というムダが見えてきた。「上を見て店内を歩くのは同業者くらいしかいない」という理由から、この2つは大幅に削減している。

 一方で、お客は商品と下を見て店内を回遊するものだから「床だけは奢【おご】れ!」と指示を出した。

 家田さんの語録に「経費はすべてが悪なのではない。余計な経費は使うな」とあるが、まさにその具体例といえよう。

  出店に関する大小の投資額削減を積み重ねた結果、「アピタ」の1坪当たり投資額はピークの140万円から60万円と半分以下になった。その結果、家田さんが開業させた「アピタ」は、長くても3年間で黒字転換を果たすことができるようになった。

 

 高額家賃のテコ入れで、最も儲かる店に

 家田さんは、出店政策の柱に再び「アピタ」を据え、1994年から1996年の3年間で30店舗を開業させた。

 なぜこの時期に大量出店したのかと言えば、現場に異動させた700人の余剰人員の受け皿作りのためだ。「アピタ」の大量出店は、ユニーの営業力強化につながった。

  その一方では、「アピタ」以外の既存店舗にも手を入れた。

 たとえば、開店から20年が経過した、かつてのユニーの一番店、ユニー一宮店(愛知県)だ。もはや栄光の日々は昔話でしかなく、年間の投資回収率は19%と極端に生産性の低い店舗になっていた。

 犯人はその高額な家賃だった。

「大家さんの言い値を払っているから家賃が高くなる。どうしても欲しい骨董品と一緒で、そうなると相場の10倍も支払わなければいけなくなる」。

 撤退を前提に大家と粘り強く交渉をし、何とか家賃の値下げにこぎつけた。そこで大型リニューアルを実施した結果、売上のみならず、テナント収入も上がり、ユニー一宮店は同社でもっとも利益の上がる店舗として復活を遂げた。

 

ユニー小牧店では、「使い勝手が悪い」という店長からの指摘を受け、エスカレーターを2基設置する大リニューアルが行われた

 リニューアルは、一宮店のような大掛かりなものばかりではない。

 家田さんは、本部を小さくしたことにともない、店長に多くの裁量権をわたしている。最も驚くのは、稟議書なしで店長に100万円の決裁権を与えたことだ。自分の決済で現金100万円を使えるということは、現場視点での小さなリニューアルを促進し、店長のコスト意識を高め、責任感を育んだ。

 たとえば、ユニー豊田元町店だ。ここの店長は、100万円を蛍光灯交換に当てた。

 このころ、既存店舗の蛍光灯は3年に1回替えることが通例になっていた。しかし店長が異動着任した19937月は26か月目に当たる時期。売上が前年に届かない理由の1つを薄暗い店内にあると考えていただけに、「どうしても明るくしたい」と見積もりを取ってみた。

 その額は、原材料費100万円、人件費100万円の合計200万円。そこで、営業時間中のアイドルタイムを利用して従業員が手作業で蛍光灯替えると、わずか1週間で全店内を交換することができた。

 店舗を明るくなるように改装すると、店長の読み通り、売上は上昇カーブに転じた。

 

  “背広族”が闊歩していた新店やリニューアルオープンの光景も随分変わっていった。

 家田さんが来てからというもの、新しい店舗が開業するに際しては、本部勤務の者は留守番の数名を残して、職位を問わず基本的に売場応援に入った。家田さんは「立っている者は親でも使っている」と豪語した。

 

 家田さんが臨店に力を入れる理由

 こうしたリストラを断行しながら、家田さんが力を入れていたのは臨店(店回り)だ。単身でふらっとどこの店舗にも、新幹線の自由席で移動して突然現れ、①店はキレイか? ②余計な在庫はないか? をチェックした。

 それ以前に、家田さんは全店長を集め、「店舗はきれいにしておけよ。せめて俺が行った時くらいはきれいにしておけよ。でもいついくかわからないぞ」と公言している。

 だから、臨店を受けた店長は、「今日来るとは思わなかった」では済まされない。売場の状態が悪ければ、文句や小言を連発され、口汚くののしられる。

 突然の臨店を嫌った店長たちは、電話を使ったネットワークを生み出し対抗した。「いま金沢文庫店(神奈川県)を出たところだから、次は日吉店(神奈川県)辺りに顔を出すだろう」といった情報が家田さんを送った店舗発で飛び交った。

ところが、こうした動きを察知した家田さんは裏をかき、掛川店(静岡県)に突如として現れる――。

 ふいを突かれた店長は白旗を上げるしかなかった。

 こんな攻防を繰り返すうちに、店長たちは、臨店を予測して、泥縄的に店舗を装うことをバカらしく思うようになった。

 そこで開店時と15時に店内清掃、開店前に店外清掃とスケジュール化をするようになり、常日頃からいつ臨店されても問題のないような店舗管理をするようになっていった。

 

 家田さんは、臨店の際には、店長と直接会話する。その際には、何か心に残る言葉を残し去っていく。「四角い部屋を丸く掃いて掃除をした気になるな」と言われて愕然とさせられたと証言する店長もいた。

 家田さんは、現場を回ることで心の部分も含めた店長教育を施した。店長たちは家田さんから学んだことを副店長、チーフからパート、アルバイトに落とし込んでいく。全従業員の意識が変わっていく。

 

 臨店をしていると見えてくる問題点もある。

 たとえば、家田さんが社長に就任するまで、物流業者の店舗への納品は15時までと決まっていた。すると物流業者は時間を厳守するために、ユニーだけの荷物を積んで配送せざるをえなくなり、トラックの積載効率は著しく落ち、それが物流費に転嫁されコストアップにつながった。それを営業時間中はいつでも荷受け可能とした。

 検収するのは、店長や副店長も含め、手の空いている従業員。1店舗×店数分のコストを削減することができるようになった。

 

 とにかくがむしゃらに働いた。

しかし、家田さんが社長就任1年目で迎えた19942月期決算は惨憺たるものだった。売上高こそ5570億円と対前期比1.3%の微増となったが、当期損失949800万円とユニー史上初の赤字決算を喫してしまう。

 競争激化と老朽化によって稼ぎ頭であった築10年クラスの店舗の収益性が低下したことと、高額投資型の「アピタ」「生活創庫」の低収益性にあった。

 だが、この決算に落胆した社員は、もはや1人もいなかった。家田さんの諸策と自分たちの頑張りでユニーが再生の道をたどり始めていると感じ始めていたからだ。