前々回の本稿でユニーの“中興の祖”の1人である故家田美智雄さんについて書いたところ、思いがけずにたくさんの反響を個人的に頂戴した。そこで、家田さんの経営手法やリストラ策、生き様について記そうと書き始めたら、1万5000文字に達してしまうとともに、いまだ筆が止まらない。そこで、今回から6回にわたって、家田さんという流通業界最強のサラリーマン経営者を振り返りたい。
「これがアメリカで流行しているスーパーマーケットか」
ユニーの“中興の祖”として経済界でその名をはせた家田美智雄さんは昭和9年(1934年)1月7日、愛知県稲沢市で生まれた。
実家は農業を営む一方、父親は公務員で千代田村の助役をしていた。
昭和27年(1952年)に明治大学政治経済学部に入学する。
裕福な家庭に育ったが、仕送りはあまりなく、東京での暮らしは金欠を極めた。3人の仲間でおカネを出し合い、1つ10円の納豆を買い、八百屋の店頭に放ってあった長ネギの青い部分を刻んで量を増やし分け合いながら食べ、糊口を凌ぐような毎日を過ごした。
「当時、東京ではコメ1升が200円で売れたんです。親をだましてコメを担いで上京して仕送り代わりに使った。学生には移動証明書が付与されていたので警察に捕まってもコメを没収されることはなかった。それでもカネはなかったけど」
昭和31年(1956年)、大学卒業後、東京都内にあった竹中工務店の子会社である豊洲木材工業に就職した。
「材木屋というのはロスが多い。のこぎりの入れ方をちょっと間違っただけで、一本の木が丸々お釈迦になってしまう。その意味では、あまりいい商売ではなかった。鉄くずなら目方で売れるけれども木くずは薪(まき)として風呂屋にしか売れないからね」
その頃の豊洲木材工業は羽振りが良く、「日本博」の設営係としてブラジルに出張する従業員もいた。帰国した先輩たちの土産話を耳にするにつけ、どうしても行きたくなった。
そこで社内の5人を誘って、「夢のブラジル行」を企画した。
1人約10万円の費用を要したが、大卒初任給が5600円の時代――。10万円は単純に計算すると、現在の400万円弱に当たるような大金だ。新入社員が持っているはずも工面できるわけもない――。
無心するため実家に帰郷した。
母親に話すと、「どうしてそんな大きなお金がいるの?」ときつく問い詰められ、しまいには「私も一緒に行く」とすがられた。
話し合った末、「東京においておくとロクなことやらへんから、名古屋に帰ってきて就職しなさい」と思いもしなかった方向で説得されてしまう。
東海銀行の支店長をしていた従兄の伝手を辿って、1957年6月、菓子問屋の上田商店に入社した。
当時の名古屋は菓子の一大産地で全国の7割ほどを生産しており、菓子問屋の数も多かった。給与は住み込みで月1万2000円――大卒初任給の2倍以上の高給を貰った。
入社して驚いたのは、大学を出ている者がほぼいないことだ。即戦力の幹部候補生として期待されての高給であることに気づかされた。
だが、学歴と商売の巧拙は関係ない。同年齢または年下の大先輩は、製造工程を理解し、原価や卸値を計算し、取引先とタフな交渉をしている。すでにベテランの商売人として何でもでき、脂に乗り切った時期を迎え、シャカリキに動いていた。
そんな姿を横目に、家田さんは営業職で採用されているのに焦るばかりで何もできなかった。ただただ恥ずかしかったことを覚えている。
給料の額と仕事内容のギャップが腹立たしく、実に歯がゆく感じた時期を過ごす。
「俺は学校で一体、何をしてきたのだろうか?」。自問自答を繰り返していた。
それでも運は見放さなかった。
1956年、吉田日出夫氏が福岡県小倉に開業した丸和フードセンターに端を発する「主婦の店スーパーチェーン」が中部圏にも続々と開業したからだ(http://diamond-rm.net/management/50511/)。
第1号店の大垣店(岐阜県:約100坪)を皮切りに、津(三重県)、松阪(三重県)…。さっそく、目をつけ、売り込みに行く。
すると、あられ50缶、かりんとう100本というように受注単位が従来とはまるで違った。それを袋に入れて値段をつけて棚に並べる。急いで懸命に詰め込んでも棚から消えてゆくスピードに追いつかない。
個人商店とスーパーマーケットの圧倒的な違いを肌で実感した。
「これがアメリカで流行しているスーパーマーケットか。こんな商売があるのか!俺もやってみたいなあ」。
漠然と食品スーパーの魅力と潜在性を感じながらも、その後、昭和34年(1959年)に菓子二次問屋の城屋に転職し、次第に菓子のエキスパートとしてのキャリアを積んでいった。
菓子以外はズブの素人が“食品の経験者”として、ユニーへ招聘
昭和35年(1960年)――。
西川屋(後のユニー)は衣料品の大型店舗を名古屋市熱田区六番町に開業した。だが業績は芳しくなく、不振を極めていた。
当時、営業部長を務めていた西川俊男さんは、ペガサスクラブを主催する渥美俊一氏(当時は読売新聞記者)に対策について相談した。
渥美氏からは、「食品スーパーを併設したらどうか」というアドバイスを受けた。「なるほど」と感心させられたけれども、長く西川屋の主力商品は衣料品であり、社内には経験者がいない。
西川さんは、懇意にしていた家田さんの従兄にそんなことを打ち明けた。
その時、従兄がひらめき、“食品の経験者”として推薦したのが家田さんだ。
そんな経緯を経て、1961年7月10日、家田さんは西川屋に入社した。
当時、西川屋の年商は5億円。老舗百貨店の丸栄(愛知県)が約30億円を売り上げていた時代だ。「自分のいるうちに30億円になるといいな」と淡い期待と秘めた情熱があった。
“食品の経験者”という触れ込みで入社した。だから即戦力としてすぐに結果を残さなければならない。しかし、悲しいかな、食品については菓子業界のことしか分からない。
「でも、(食品スーパーを)『知っている』ということで入ったから、『やらざるをえん』」かった。
そこで埼玉県川越市にあった食品スーパーに押しかけ、3日間にわたっていろいろ教えてもらった。
泥縄的な勉強ではあったが、1961年9月20日、何とか西川屋の食品スーパー1号店を名港店の3階に開店させた。
それまで食品は菓子などを中心に揃えていただけで日商は7万円ほど。それが食品スーパーとして開店させると30万円に跳ね上がった。
とはいうもののその時点で、家田さんは菓子以外の食品についてはズブの素人である事実は変わらなかった。
とにかく学ばなければいけない――。
多くの食品問屋の門戸を叩き、話を聞きまくった。
「呉服屋は所詮、呉服屋。食品やったって売れんよ」と厳しい言葉を浴びせられることもあった。