ユニー、2人の中興の祖
ユニーには2人の中興の祖がいる。
1人は前回この場で紹介した家田美智雄さん。
初代の中興の祖は、ユニーの実質創業者ともいえる西川俊男さんだ。
西川さんは、1925年(大正14年)、「はき物店」を営む西川長十さんの三男として愛知県名古屋市中川区に生まれた。
1945年に岐阜薬学専門学校(現:岐阜薬科大学)を卒業後に日本薬化学に入社。1949年、長十さんが設立した西川屋に入社、取締役に就任。1959年の伊勢湾台風の反省をもとに、兄の義雄さんとともにチェーンストア化を志向する。
チェーンストア経営については、西川屋(愛知県)、ダイカイ(三重県)、ハトヤ(大阪府)、いづみや(大阪府)、フタギ(兵庫県)、福屋(岡山県)の6社で結成した勉強会の「大成会」(後の日本ダイナミックチェーン〈NDC〉)や東レサークル、HH販売能率推進本部の成瀬義一氏が主宰する「成瀬会」などに学んだ。
1963年に西川屋チエンに商号変更し、取締役。1969年にマルサン(長野県)、銀杏屋(三重県)と合併。1970年4月に代表取締役副社長に就任した。
1971年にほていや(神奈川県)との合併により、ユニーを設立。取締役副社長に就任する。ユニー(UNY)は、「マーチャンダイジングとマーケティングの接点となるユニークな流通企業」(西川さん)を目指し、「ユニーク(unique)」「ユナイト(united)」「ユニバーサル(universal)」「ユニティ(unity)」「ユニファイ(unify)」の語感を反映させた造語として社名としたものだ。
1976年、名古屋証券取引所に上場。同年、ユニー代表取締役社長に就任すると、1年間で17店舗をスクラップするなどのリストラの大鉈をふるった。
その後、「ユニーの森」を提唱し、食品スーパー(ユーストア)、専門店(さが美)や外食産業やサービス業への多角化を進め、企業規模拡大に奔走した。香港への進出やコンビニエンスストアのサークルKを日本に持ち込みチェーン展開に成功した。
さらには、ドーナツショップやテレホンショッピング(無店舗販売)にも早くから目をつけ、事業展開をスタートさせている。
1990年に代表取締役会長、1993年に取締役会長に就任。1997年に名誉会長に就き、経営の第一線からは退いた。
公職としては、1980年5月から1984年5月まで日本チェーンストア協会会長を務めた。
何にでも飛びつく「新しがり屋」
西川さんの経営の特徴を一言で評するならば、何にでも飛びつく「新しがり屋」。「今日からスタート」の言葉を好み、過去の経験にとらわれない自由な発想を醸成できるように自分を戒めた。
最晩年の西川俊男さんは、多忙をきわめていたという。講演の回数も「中京大学」「西川会」「西川塾」…と年齢を重ねるとともに増えていたそうだ。
『夢に生きる―西川俊男回想録―』(著者は夫人の西川博子さん)によれば「お話を承っている最中でも、テレビや新聞、雑誌の中からでも、気がつけばいつもメモしておりました」とあり、「たまに家で過ごす時は、まるで、受験生のように集中して原稿を書き、資料作りをしていました」と経営者として第一線から退いた後の衰えることないモーレツぶりが披露されている。
講演の最後には伝えたい言葉として次のことを話していた。
・人生の三感王 ①関心を持つ ②感動する ③感謝をする
・経営の三感王 ①危機感 ②存在感 ③使命感
・今日からスタート(明日の希望を求めて再出発のスタートを切り、最後の最後まで頑張り通すことに好転の道がある)
西川博子さんは、次のように締めくくっている。
「素直で純粋。質素でこだわりや執着がない人でした。常に明るい未来と夢に向かって、全力疾走でかけぬけた人生だったように思えます。丁寧に、なすべきことをし終えて、燃えつきて、そういう意味では故人は今までの生き方に悔いを残すことはなかったのかもしれません」。
「『老い』や『老後』という言葉や『病い』や『入院』という言葉が似合わなかった人だった」。
「万年青年のようなその気概と、動作に澱みがなく、背すじをしゃんと伸ばし、奇跡の体と多くの医師に言わしめた西川俊男は、その人生にふさわしく、次の世に向かって真っしぐらにいったように思います」。
「主人にとっての最期もきっと 今日からスタート! と、きびきびとした動作で、新しい旅立ちをしたのでしょう」。
西川さんは2015年元旦に逝去した。