メニュー

#8 北海道最強スーパーの意外すぎる過去。デフレ時代に咲いた遅咲きの花、アークス

北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けています。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第8回は、いまや北海道スーパーマーケット市場においてリーダーの座にあるアークス成長の歴史と、そのアークスを導いた横山清社長の軌跡に迫ります。コープさっぽろとの意外な関係の深さも明らかになります。

過去にあった、アークス横山社長のコープさっぽろ移籍話

 北海道のスーパーマーケット市場は現在、およそ1兆2000億円の規模があり、その4分の1ずつをイオン、アークス、コープさっぽろの3グループが分け合う「3極寡占化」の状態にあります。

 北海道流通史を振り返ると、現在の市場構造に大きな影響を与えた出来事がいくつか存在します。1978年に表面化し、結局は実現しなかった横山清・アークス社長(当時は前身の大丸スーパー専務)のコープさっぽろへの移籍話もその一つでしょう。

 横山氏は99年に出版した著書『好況は自分の手でつくる』(東洋経済新報社)でこの移籍問題に触れ、<全く気持ちが動かなかったかと言えば嘘になる。一時は、辞表を提出する覚悟もできていた>と書いています。

 78年4月に開かれたコープさっぽろ理事会の資料には、「役員選出の件」という項目に「常勤理事補充~横山大丸スーパー専務」と明記され、移籍は内定していました。すんでのところで横山氏が翻意し、今日に至るわけですが、ここから明らかになるのは、今でこそ国内を代表する食品スーパーとなったアークスも、40年前には「育ての親」が見切りをつけるレベルの企業だったという事実です。

サイドビジネスの養豚から生まれたアークス

1961年にオープンしたダイマルスーパー1号店の山鼻店(「ラルズ35年史」より)

 「北海道価格」と呼ばれた道内の不当な高物価が解消に向かったのは、65年にコープさっぽろの創立以降である-と当連載の2回目で書きました。それではアークスはいつ設立されたのかと言えば、それより4年も早い61年10月のことでした。 

 設立のきっかけは、東京の海産物商社・野原産業の北海道支店が60年に札幌近郊で始めた2000頭規模の養豚事業に遡ります。主力商品の魚かすの売れ行きが輸入物の影響で落ち込んだため、サイドビジネスとして養豚業を立ち上げ、売れ残った魚かすを飼料として消化しようとのアイデアでした。飼育した豚は61年春にハムメーカーに出荷する約束もできていました。

 ところが出荷する直前に豚肉相場が急落。メーカーとの約束は反故にされてしまいます。宙に浮いた2000頭分の豚肉をどう処分したらいいのか-。「最近流行のスーパーマーケットを出せば、売りさばけるのではないか」。にわかに社内で浮上したアイデアを基に野原産業が札幌で立ち上げたのが大丸スーパー(設立時の社名は「ダイマルスーパー」)でした。

 たった1年の間に、売れ残った魚かすが豚肉に化け、さらにスーパーマーケットに化けた…。こんな冗談のような経緯によって、現在のアークスは誕生したのでした。

 創業時の大丸スーパーの役員は野原産業の経営幹部が兼務し、社長以下6人全員が非常勤でした。そのため1号店の山鼻店の運営は新規採用した若い社員たちに任されましたが、開店早々トラブルに見舞われます。61年暮れに最初の棚卸を行ってみると、仕入れたはずの商品の数が合わず、大赤字になってしまいました。肉や魚をさばくために雇った職人が入荷した商品を勝手に横流しし、代金を自分たちの懐に入れていたのが原因です。

若干26歳の“横山清”営業部長

 「職人をしっかり管理できる人間が必要」-。店からの要請を受け、親会社の野原産業は一人の若手社員を「営業部長」として送り込みます。それが当時26歳の横山氏でした。今では創業者然としている横山氏も実は「出向社員」だったということになります。

 横山氏は旧産炭地の芦別市生まれ。芦別高校卒業後、炭鉱労働者を経て北大水産学部に進学した異色の経歴の持ち主です。水産学部は函館にキャンパスがあり、横山氏は教養課程の2年間を札幌、学部の2年間を函館で過ごし、学生寮に入寮していました。卒業後に就職した野原産業から思わぬ形で大丸スーパーに出向し、現場責任者にさせられた横山氏は、北大時代の寮仲間を呼び寄せ、手探りでスーパー経営を開始するのです。

 連載の2回目では、北大生協で活動していた学生たちを中心に事業化したコープさっぽろが「北大発の学生ベンチャー」に近い性格を持っていたと指摘しました。実は現在のアークスも北大の仲間同士で新規事業に挑んだという点で似た背景を持つ組織であり、このことが今日の宿敵関係につながっていきます。

 もっとも、この「似たもの同士」の歩みはまさにウサギとカメほどの違いがあった。渥美俊一氏のチェーンストア理論を忠実に実行し「高速成長路線」を突き進んだコープさっぽろに対し、大丸スーパーは70年代に入っても中堅どころに甘んじていました。

 横山氏もチェーンストア理論の有効性には早くから気付いていました。65年春に商業界箱根セミナーに初参加し、渥美氏の講演を聞いた横山氏は<チェーンストア構想が頭の中ではっきりとした形を取り始めた。「チェーンストア理論を基盤とした多店化を進めなければ駄目だ」。そう痛感したのである>(「ラルズ35年史」)

チェーンストア構想あるも、出遅れた理由

 ところが、大丸スーパーは肝心の多店化で完全に出遅れます。コープさっぽろが創立4年後の69年に10店目を出し、6年後の72年3月期には売上高100億円を突破したのに対し、設立では先行していた大丸スーパーの10店目出店は15年後の76年、年商100億円突破に至っては22年後の84年2月期までかかってしまいました。

 この「低速成長」の原因は、親会社の野原産業が64年に北海道を撤退するにあたり、大丸スーパーの社長を中山大五郎氏という地元の名士に委ねたことにありました。中山氏は札幌・狸小路商店街の衣料品店から身を起こし、札幌商工会議所副会頭を務める「商店街組織のリーダー」。野原産業が大丸スーパーを設立する際、中山氏に相談を持ちかけたことがきっかけとはいえ、商店街のリーダーが利益相反関係にある「スーパーの社長」に就くことになった。

 公職が多く多忙な中山氏は大丸スーパーの経営に直接タッチせず、専務に昇格していた横山氏にかじ取りを任せていました。ただし新規出店だけは、いかに横山氏が説得しても頑なに認めようとしなかった。要は「商店街のリーダー」としての立場を「スーパーの社長」よりも優先させたわけです。

 「中山社長に聞いたことがありましたよ。一体、大丸スーパーをどう思っているんですかってね…」。思い悩む横山氏に「うちに来ませんか」と声をかけたのが、コープさっぽろの河村征治専務理事(当時、故人)でした。71年の経営悪化を受けて北大生協から移籍し、2代目トップに就いた河村氏は、北大の学生寮「恵迪寮」で横山氏の1期後輩に当たります。コープさっぽろの再生を担う河村氏は、プロパー役員の実行力に物足りなさを感じており、旧知の横山氏の手腕を借りたいという思惑があったのです。

“北大愛”ゆえに、コープさっぽろ移籍を翻意

北大の著名な学生寮の名を借りた社員寮「ラルズ恵迪寮」。横山氏は学生時代に恵迪寮の寮長を務め、寮費を滞納している先輩学生からも臆せず取り立てを行い、赤字財政を立て直したという

 これが冒頭紹介した移籍話につながるわけですが、横山氏は先の著書で<一時は、辞表を提出する覚悟もできていた>のにそうしなかった理由をこう記しています。<私を思いとどまらせたのは、私が誘い入れた北大時代の仲間や後輩たちの顔だったのである>。

 自社の独身寮に「ラルズ恵迪寮」と命名したことからも分かるように、横山氏ほど北大への母校愛を口にする経営者は地元でも珍しいほどです。それゆえ同じ北大を由来とするコープさっぽろには、親近感以上に「絶対に負けたくない」という思いが強かった。

 コープさっぽろは、北大生協という全国有数の経営基盤を持つ大学生協のバックアップのおかげで、創立時から資金調達の苦労もなく大型投資を進め、60年代後半の5年間で北海道トップの流通業者に上り詰めました。同じころの横山氏は「カネがなく、過剰在庫も品切れも許されないから、毎日の仕入れを考えるだけで胃に穴が開いた」と言います。

アークス、バブル崩壊前後に花咲く

ラルズの名を消費者に知らしめた「ビッグハウス」1号店の太平店(札幌市北区)。ダイエーの不採算店を見事に再生した横山氏の手腕に、ダイエー創業者の中内㓛氏は「ラルズには2度と売るな」と社内に厳命したという

 境遇の差に対する悔しさ、反骨心、ひいては組織体質の決定的な違いが、直前で移籍を翻意させることになった。この選択は大正解でした。「胃に穴が開いた」ほどのぎりぎりのコスト感覚は、90年代初頭のバブル経済崩壊後に開花するのです。

 横山氏は85年、中山氏の死去に伴い、大丸スーパー社長に昇格すると、一気に多店化攻勢に出ます。89年には地場衣料品量販店の金市舘と合併して社名を「ラルズ」に変更し、コープさっぽろに次ぐ道内2番手のスーパーに浮上しました。

 横山氏が真の意味で「天下」を取るのは、創業から33年後の94年4月、ディスカウント業態「ビッグハウス」1号店の太平店(札幌市北区)を出した時だったと言えるでしょう。ダイエー子会社が売りに出した不採算店舗を安く買い取り、初期投資を切り詰め、1個よりも2個、箱買いの方が単価の安い「一物三価方式」を採用してまとめ買いを誘導。デフレ時代の消費者心理を見事につかみ、開店から2カ月で黒字転換を果たすという伝説的成功を収めました。

外敵・イオンが、アークスを飛躍させた

 これ以降、他社を圧する低価格路線で道内消費者の圧倒的な支持を得たラルズは、97年の拓銀破綻後の不況下で急成長した「北海道現象」5社の一つとして全国的な注目を集めました。対照的にバブル時代に総合スーパータイプの大型店出店を加速させるなど、拡大路線を突き進んだコープさっぽろは、「北海道現象」の陰で2度目の経営危機を迎え、いったん競争から脱落することになります。

 およそ半世紀前に北大出身の若者たちが立ち上げた二つの組織は、コインの表と裏のような関係にあるとの言い方もできます。高度成長期からバブル期にかけては、コープさっぽろの積極拡大路線が北海道流通のレベルを引き上げ、バブル崩壊後のデフレ経済の下ではラルズの低コスト、低価格路線が業界をけん引してきました。

 90年代に北海道流通の主役に躍り出たラルズは21世紀に入り、「アークス」という会社に「羽化」し、日本を代表するスーパーマーケットへと飛躍していきます。それを促したのはイオンという「外敵」の存在でした。次回はイオンが北海道市場に与えた影響を探ります。