日曜日(9月22日)に出場した区民大会の「テニス 男子シングルス(B級)」は、0-6とボロボロの初戦負けだった。20代中盤の若い選手にまったく歯が立たずに僅か30分ほどで敗れてしまった。
まあ、シングルスを本格的に学んだり、練習したことがなく、動き方の基本も知らないのだから、当たり前と言えば当たり前の話だ。
ただ、そんな状況だったから、対戦相手には、横綱に胸を借りるような気持ちで思い切り当たることができた。いつもの緊張感はまったくなく実力はいかんなく発揮できたと自負している。
今回は、その実力が不足しているのであって、本当の力負けだったと言っていい。
そんな風に自分を反省しながら試合を振り返った時に、気楽に勝負に臨む私とは逆の立場にいる「優勝候補」など実力者のプレッシャーとは、半端じゃないんだろうな、と思わざるを得ない。
私のように、勝っても、負けても、失うものはなにもない海千山千の選手が次から次に挑戦状を叩きつけてくるのだ。失うものがないから、捨て身で実力以上のパフォーマンスを出せる可能性が高い。
一方、「優勝候補」と目される選手は、まったく逆だ。勝って当たり前、負ければボロクソ――。場合によっては、きれいな勝ち方まで求められるわけだから、掛かる重圧は、ノーシード選手の数倍以上と見ていいだろう。
“草トーナメント”のテニス大会でさえ、そんなものである。
では、プロの世界の場合はどうなんだろうか?
プロを称する限りは、技術的には、ある一定のレベルに達していることは疑いない。
だが、そのプロと呼ばれる人達の中でも、実力に応じて、超A級、A級、B級、C級、D級…と厳しいヒエラルキーが存在しており、構造的には“草トーナメント”大会の参加者とそれほど変わりはない。
その意味からすれば、超A級の錚々たる選手を買い集め、「絶対優勝」を約束させられているプロ野球球団、東京読売ジャイアンツの原辰徳監督のプレッシャーは、想像を絶する。
負けたところで、巨人以上には失うものはないチームを相手に常に勝つことが求められているからだ。
超A級を手駒にたくさん持っているのだから勝って当然とばかり、原監督に対する評価はそれほど高くはない。
けれども、そんな理由から、2年連続のセントラルリーグ優勝は、他チームが優勝する以上の価値があると、私は大いに評価している。