確実に進行し、身近に迫っていると実感するのは超高齢社会だ。
たとえば、レジでの精算――。
老婆は、財布から小銭を出すのにも難儀している。だが、財布からジャラ銭を放逐したいという気持ちは、万人共通の欲望だ。末尾の79円を10円玉と5円玉、1円玉で出すのに費やす時間は30秒超、となれば、後続者は、憎しみはなくともイライラしてしまう。
たとえば、駅構内の移動――。
老爺は、周囲の人たちの速度に合わせては動けないから、通路、エスカレーター、改札…と、列の流れをピタリと止めてしまう。気を利かせてよけることもできないから、追い越そうにも、追い越すことができない。恨む気はまったくないけれども、イライラさせられてしまう。
体力的には相当弱ってきている高齢者は、もはや平均的な速度では動けないということなのだろう。
そんなことは分かっているのだが、現実問題としてわが身に支障が降りかかってくると、じれったく感じてしまう身勝手で恥ずかしい自分がいる。
今後、超高齢社会はさらに進展していくだろうから、高齢者は暮らしのそこここで、ブレーキ機能を果たすようになると予想される。
それは、将来的に見れば、あくせくした現代とスローライフとを結ぶ起点になるのかもしれない。
だが、まだしばらくの間は、生活空間の各所で軋轢を起こし、一大事になる可能性も否定できない。当面の間は、対策を講じて打つ必要があるだろう。
ただ、そんな状態もこれから10年ほどの過渡期に過ぎないような気がする。
そのさらなる向こう側では、現在、“普通”と考えられている速度が減速化して、“普通”のスピード自体が変わっていくと思われるからだ。
かつて、歌手の井上陽水さんは、『東へ西へ』(1972年)という楽曲の中で「お情け無用の満員電車で 床にたおれた老婆が笑う」と書いた。
高齢者が一大勢力になることで、ようやく、私のような無慈悲な人間や歌に描かれたような冷酷な状況も改善に向かうのであろう。