(昨日の続きです)
順風満帆と成長路線をひた走ってきたように見えたダイエーは、83年2月期の連結決算で65億円超の赤字決算に陥ることになる。「P(プランタン)C(クラウン)B(ビッグ・エー)」の3社が足を引っ張ったためだ。
このときに、日本楽器製造(現:ヤマハ発動機)の河島博元社長をリストラクチャリングの実行責任者としてスカウト。3カ年で「V革」は達成し、ダイエーは復活した。
しかし、その後も中内さんの事業拡大意欲は尽きることなく、小売業では94年に忠実屋、ユニード、ダイナハの3社を吸収合併し、一時は北海道から沖縄県に380店舗を展開するに至った。
その他では、リッカー、南海ホークス球団、リクルート、横浜ドリームランド、マルコーなど「人に頼まれた」という理由のもと次々と買収。グループ企業180社、売上高5兆円の巨大グループに膨張した。
業態開発にも積極的で、ディスカウントストアの「TOPS」「Dマート」、高級食品スーパーの「イタリアーノ」、スーパーセンターを真似た「ハイパーマート」、会員制ホールセールクラブの「KOU‘S」など続々と出店を続けてきたが、どれもうまくいかなかった。決定的だったのは「ハイパーマート」の失敗であり、「先を走りすぎ後ろを向いたらお客様がいなかった」と中内さんに言わしめた。
そして、積極拡大路線は、ダイエーに大きな有利子負債をもたらした。バブル経済の崩壊後は、大量出店や過度の投資が裏目にでて業績は悪化の一途を辿ることになる。
95年の阪神淡路大震災は、痛んだ財務諸表に追い討ちをかけた。ダイエーの被害総額は400億円にのぼり、95年2月期決算の最終損益は256億円の赤字に陥った。97年2月期決算では、上場以来初の経常赤字を計上する。
99年、味の素の社長副会長を務めた鳥羽薫(ただす)氏に約40年間務めた社長の座を譲り、代表取締役会長に専任した。しかしながら、鳥羽氏は不明朗な株取引問題が発覚して辞任に追い込まれてしまう。これを機に、中内さんも、2000年から務める取締役最高顧問も退いた。
ダイエーは04年10月に、産業再生機構に対し再建の支援を要請した。
中内氏は、流通科学大学の理事長として、後進の指導にあたる中で05年、83歳で死を迎えた――。
このように歴史を紐解いていくと、中内さんが打ち立てた金字塔は、ただひとつということではなく数限りなくあることが分かる。
競技種目を変えるゲームチェンジャーではなく、競技のルールを初めてつくったゲームクリエーターであったこともわかるだろう。
とくに注目したいのは、華やかな成功よりも、それ以上に多い失敗の数々である。
中内さんの前に中内さんはいなかったから、誰もが2番手以降のプレイヤーとして、マーケットリーダーの失敗を、損失を負うことなく(=無料で)、目の当たりにすることができた。
マーケットリーダーとしての失敗の数々は、チェーンストア業界にとっての反面教師の役割を果たし、「中内さんが失敗したからこの方向に行くのはやめよう」「中内さんの方法は変えよう」というヒントを多くの企業や経営者与えたに違いない。
その意味から言っても、中内さんの轍とは、チェーンストア業界の発展に大きく貢献したと評価することができ、“流通の巨人”としての存在感をいまなお確固たるものにしている。