「失敗には母親は名乗り出ず、成功にはたくさんの母親が名乗りをあげる」というけれども、私にも苦い経験がいくつかある。
もうずいぶん前に、『チェーンストアエイジ』誌で私が企画編集した特集がヒットして評判になったことがある。編集会議では、「誰がそんなものを読むんだ!」とはねられたような企画だったが、雑誌が発行され、ふたを開けてみれば、時流にマッチしていたようで「してやったり」と溜飲が下がったものだった。
ところが、そこから15年くらい経過した後に、企画反対の急先鋒だったAさんは、「私の編集人生の中で、もっともよい仕事は“あの企画”だった」などと平然と自慢していた。当時、記名原稿はまったくなかったので、私の企画や原稿を彼は自分でした気になっているのだろう。
「どの口がそんなことを言わせているんだ」と内心では憤りを覚える半面、「人間の記憶なんてそんなもんなのだろう」と悲しくなってしまった。
もうひとつ。最近、ある筆者に私が持ち込んだ企画が単行本化された。そのあとがきに目を通すと、いつの間にやら、発案者は筆者ということになっている。自分を美化したい気持ちはわかるが、事実はそうではないのだから、びっくりさせられる。
2人とも決して悪い人たちではない。だが、たぶん、そのことについては、本人たちの記憶回路が壊れてしまっているのだろう。
本気で自分がやったと思い込んでいるから、たとえ「嘘発見器」にかけられても反応はしないはず。人の記憶とは、所詮そんなものなのだろう。
まあ、私のケースは、仕事の企画発案者が誰であっても、どうでもいいような些末なことだ。事実があっていようと違っていようと、私の気分が少し悪くなるだけに過ぎない。
しかし、ちょっと視野を広げて、延々と続く世界の歴史に思いを巡らせると、途中で成果を奪われたり、「死人に口なし」とばかりに事実を書き換えられたりしたことは、非常に多かったのであろう、と容易に想像がつく。