「黒い霧事件」などの八百長敗退行為を思い出したオールドファンもいたかもしれない。
毎日、メディアを通じて流れる「野球賭博」に関するニュースのことである。
ただ、『週刊新潮』誌が2010年5月27日号で角界の「野球賭博」疑惑を報じるまで、新聞をはじめとする他のメディアは、「野球賭博」という単語自体を掲載したことがなかった。
とくに新聞の体たらくはどうしてしまったのかと首をひねってしまう。
1000人規模の記者を抱える大新聞こそ、「野球賭博」のようなニュースを誰も知らない時期に嗅ぎつけ、報じるチャンスが十分にあったと考えるからだ。
あくまでも私の推測だが、新聞の相撲担当記者や社会部記者の何人かは、「野球賭博」の噂やその一部の実態について、見聞きしたことはあったのだと思う。
しかし、それ以上深入りせず、記事にしなかったのは、角界にとって都合の悪い記事を書くことで、日本相撲協会に睨まれ、当人または当該社が出入り禁止にされてしまうのを恐れてのことだろう。
実際、朝青龍の事件の際に、日本相撲協会への批判的なコメントに同調したような態度を見せた東京相撲記者クラブ会友、杉山邦博さんの取材証が没収された過去がある。
新聞のルーツは江戸時代の瓦版だ。天変地異や火事、心中など時事性のある話題を速報性をもって伝えた。世間の知らないことを少しでも先に取材して伝えるという記者魂は、この頃から醸成されたものだ。
ロッキード事件、ライシャワー元駐日アメリカ大使の核持ち込み発言、リクルート事件、東京佐川急便事件、“ゴッドハンド”の旧石器捏造事件など新聞がすっぱ抜いたスクープ記事は枚挙にいとまがないほど多い。
ところが最近の新聞は、あまり読まれていない社説にこそ違いがあるものの、記事の同質化が顕著でオリジナリティを感じない。記者クラブの弊害によるものだろう。
発行部数もダウントレンドに歯止めがかからない。デジタルメディアの台頭が新聞衰退の主因という見方は支配的だが私はそうは思わない。
紙媒体の弱体化という以上に、ソフト面の弱体化、ひいては記者、記者魂の弱体化によるところが大きいと思う。