米国では、経済的に余裕のある層を中心に「やせ薬」の人気が高まっている。米金融大手JPモルガン(J.P.Morgan)は、2030年に米国におけるやせ薬の市場規模は440億ドル(約6兆3426億円)に達すると予想する。小売業界への影響も少なくない。実際に減量できた人々はサイズがより小さめのアパレル商品を求めるようになり、同時に高脂質や甘い食べ物、塩を使うスナックをあまり欲しなくなくなることで、食料品の品揃えにも微妙な変化が起こると予想される。本稿では、そもそも「やせ薬」とは何なのか、なぜ米国で流行っているのか、米小売はどう対応するのかを解説していく。
毎月20万円近くかかる「やせ薬」の正体
米国では肥満率が40%を超え、重度肥満率も10%近くに達している。個人にとっては高血圧や糖尿病、認知症のリスクになり、国全体にとっては労働生産性の低下につながるだけでなく、疾病対策の医療コストが膨らめば国家財政をも揺るがしかねないと懸念されている。
これが「やせ薬」流行の背景だ。JPモルガンでは、米減量薬市場は2022~2030年まで年率53%という驚異の成長を遂げると予測する。
そもそも「やせ薬」とは何なのか。
「やせ薬」とは、体重減少を引き起こす「GLP-1受容体作動薬」と呼ばれるもので、本来は糖尿病などの治療に使われる目的で開発され、2020年代に入り肥満に悩む人々による「やせ薬」としての転用が本格化したのだ。
デンマークの製薬企業ノボ・ノルディスク(Novo Nordisk)の「オゼンピック(Ozempic)」や「ウゴービ(Wegovy)」、米製薬大手イーライリリーのゼプバウンド(Zepbound)が有名で、米国では一般的に保険の適用範囲外であるため、月額900~1350ドル(約12万9500~19万4250円)ドルが自己負担となる(なお、日本では厚生労働省が「最適使用推進ガイドラインを満たす施設」でのみ、減量薬を保険診療で処方できる)。
毎週の注射が必要かつ高額であるため、使用者は米国人の8人に1人にとどまっているが、使用している世帯では食品支出が非使用世帯に比べて6~9%減少したと、市場調査会社ニューメレーター(Numerator)が報告している。JPモルガンの同様の調査でも、やせ薬を使用する人の食品支出が8%低下したことが示されており、食品小売が品揃えを再検討する際の目安になろう。
不健康な食品は「新たな石炭」か
とくに影響を強く受けるのは、スナック菓子やペーストリー、ソフトドリンクやアイスクリームなどいわゆる「不健康な食品」だ。実際に、食品大手の米ゼネラル・ミルズ(General Mills)やペプシコ(PepsiCo)では2023年からこうした食品の売上が軒並み落ちている。ただし、インフレで中間層や低所得層の消費が息切れし、プライベートブランド(PB)などに乗り換えている影響も大きいので、「やせ薬」の影響は現時点では軽微だと思われる。
米ブルームバーグ(Bloomberg)の端末を利用する投資家を対象に実施されたマーケッツ・ライブパルス(MLIV)調査では、参加した4人に3人近くが、「砂糖や脂肪分、超加工食品(UPF)を製造・販売する企業は分量を減らすかレシピを調整、あるいは資産を完全に売却するなどして、事業計画を見直すべきだ」と回答した。
資産運用企業の米モンタナロ・アセット・マネジメント(Montanaro Asset Management)のESGスペシャリストであるケイト・ヒューイット氏は「不健康な食品は『新しい石炭』かも知れない」と指摘しており、減量薬がさらに普及するにつれ、食品製造企業や小売に対応圧力がかかっていくだろう。
事実、スイスに本社を置く世界最大の食品・飲料会社ネスレ(Nestlé)やゼネラルミルズなどは、やせ薬を服用する人が筋肉をつくる栄養素が不足しないよう、タンパク質補強の機能性がある冷凍食品などを順次発売していく予定だ。
不健康な食品の売上が落ちてゆく一方で、このように付加価値を付けた高額な機能性食品の需要は高まるだろう。「ジャンクフード」の売上が落ちた分を、利幅の大きい食品などで補える可能性がある。減量薬を販売するドラッグストアや関連商品を扱うスーパーマーケットなどにもよい商機だ。米TDコーエン証券のアナリストは、「米小売の商品棚構成が変わる」と予測している。
アパレルでも在庫管理手法に変化
アパレル小売においても、やせ薬の流行に伴い、興味深い変化が起きている。米ワシントン・ポスト紙は9月8日付の紙面で、「ニューヨーク市の裕福なアッパーイーストサイドにおいて、2022年から2024年にかけて婦人向けSサイズの購買が5%増えたと、調査企業のインパクト・アナリティックス(Impact Analytics)が明らかにした」と報じた。
また、2022年から2024年にかけて同市マディソン・アベニューの婦人服売上において、XXS、XS およびSサイズは12%も伸びたのに対し、L、XLおよびXXLサイズは11%落ちたのである。この現象とやせ薬使用増加の因果関係は明らかではないものの、いくらかの相関関係はあるだろう。
同時に、ファッション誌の米ヴォーグの調査によれば、メンズウェアにおいてぽっちゃり体形向けのプラスサイズ生産を減らす企業が増えている。
小売に詳しいインディアナ大学ビジネススクールのマンスール・ハミトフ助教はワシントン・ポスト紙の記事で、「やせ薬の使用者は毎月15万円ほどを自腹で出せるほど経済的に豊かであるため、この『ダウンサイジング』は大きな商機だ」と述べた。
食品においても、アパレルにおいても、やせ薬流行の影響をいち早く正確に分析し、裕福層の使用者向けに商品棚構成や在庫を最適化できる小売が業績を伸ばすと思われる。