「ジミー」は沖縄県に住む人なら誰もが知る老舗スーパーマーケットだ。アップルパイにジャーマンケーキといった人気のケーキは地元客に加え、本土や海外からの観光客も買いに来る。レストランも併設するジミーの大型店舗の一つ、那覇市銘苅の「那覇店」を訪ねてみた。アメリカのスーパーマーケットに入ったのかと錯覚するほどに、アメリカゆかりの食品が所狭しと、溢れるほどに並べられていた。
人気商品の一つ、アップルパイはホールとカットで売られていた。店内のオーブンで焼かれるパイは平日で20枚、休日は30枚売れるという。ジャーマンケーキ、チーズケーキにクッキー。デリカテッセンで売られる肉総菜、自家製ベーコン、ハムや沖縄総菜等種類が豊富だ。色とりどりの食品、見ているだけでも飽きない。
ジミーは現在、沖縄本島に19店舗を展開する。生鮮食品に加工食品、デリカテッセンなどを揃えるスーパーマーケットタイプ、さらにはそこにレストランが併設したグローサラントタイプ、またケーキや焼き菓子、パン、総菜などの製造・販売をしており、“一般的なスーパーマーケット”とは一味も二味も違う。このような独自の業態へと進化した理由と今後の戦略に迫った。
創業者、稲嶺盛保氏の思い「豊かなアメリカの食生活を」
全ては終戦時、十代だったある一人の少年の「豊かなアメリカの食生活を沖縄の家庭に届けたい」という夢から始まった。創業者の稲嶺盛保(いなみねせいほう)氏だ。社名の「ジミー」も創業者の盛保氏が戦後、米軍基地に出入りしていた時に呼ばれたニックネームに因む。
米軍からの激しい空襲や艦砲射撃を受けた沖縄戦を経て終戦を迎えた沖縄にはまともな就職先もなかった。当時16歳だった盛保氏は北中城村(きたなかぐすくそん)内の米軍基地で働き始めた。
全てに物が豊富な基地内の生活。主食からデザートまで全てが給仕される「軍の食堂」で目にした光景は衝撃的だった。デザートだけをとっても、様々な種類のケーキが並べられていた。
芋を主食とした戦前の沖縄には見られなかった豊かな洋食の風景。「この豊かな食生活を沖縄の食卓へ」の思いは強くなった。
米軍の基地で働いていた時に貯めた資金で1956年5月、宜野湾市大山に10坪店、「ジミー・グロサリー」を開店する。元手もない。仕入れた商品を売り捌く雑貨店からのスタートだった。
やがて、商売も軌道に乗り、2年後の1958年5月、商号を「ジミーベーカリー」に変更する。
本場アメリカのベーカリーの味をどう習得するかの最大の課題は、米国でコックやパン屋をやっていた基地の米軍兵士たちに声をかけ、店でアルバイトをやってもらう中で製造法を学んでいった。
大山に数多く暮らしていた米軍関係者とその家族に「ジミー」のケーキは受け入れられた。当時を盛保氏の長男で、現社長の稲嶺盛一郎氏(69歳)は「時代の流れだったのでしょう」と振り返る。当時の沖縄は米軍統治下で、アメリカからの食材は関税なしで入ってきた。
アメリカの食材を使った「ジミー」のケーキはフォルクスワーゲンのワゴン車で届け、沖縄各地に住む地元の人やアメリカ人たちから支持された。「ジミー」周辺に住む、ハワイからの日系人に「ジミー」で焼いたアップルパイを届けると大いに喜ばれたという。
やがて迎える1972年5月15日の沖縄の本土復帰。アメリカンテイストが売りの「ジミー」にも日本化の波は否応なしにやってきた。「見た目はアメリカの商品でも日本復帰後は、徐々に日本製の材料に変わり、様々な影響を受けた。」(稲嶺社長)。
最初は米兵から教わった味も改良を重ね、日本の味に合わせていく。看板商品の一つ、アップルパイに使うリンゴも米国産のものが、国産のものに変わっていった。甘い日本のりんごに合わせ、製造時の砂糖の量も減らした。
アメリカ基準から日本基準に変わっていったのは味だけではない。これまでアメリカの重さの単位を計るポンドとオンスが使われてきたが1980年代までに日本仕様のキロ、グラムに改められる。
“アメリカンテイスト”に安住することなく、常に欧米や台湾などからシェフやパティシエを招いた。デリカ部門の強化にはイタリア系オーストラリア人シェフに定期的に沖縄まできてもらい調理法を伝授してもらい、シェフの味を今に伝える。稲嶺社長自身も父親の盛保氏とハワイ、米本土、欧州により良い味を求めるための研鑽に出向いた。
時代に適応、地域に配慮する味作りへ
創業時からの店の味を守りながらも時代には対応していく。今はSDGs(持続可能な開発目標)を考慮して、地産地消を心掛ける。
ナッツやレーズンをたっぷり使った、しっとりした食感が人気の「スーパークッキー」に、新たに沖縄県産の紅芋、黒糖を使った二つの味のクッキーを開発、この4月29日から那覇空港限定での先行販売を始めた。
キャロットケーキには沖縄・糸満産の人参を使い、チーズケーキで使用されるパイナップルの王様、「ゴールドバレル」は沖縄本島北部の東村で採れたものだ。贈答用にはならない、本来一つであるべき葉の部分が二、三に枝分かれしてしまった規格外の、これまでは畑で処理されていたパイナップルを有効活用している。SDGs実践のこだわりからだ。
沖縄産の材料を使うこだわりの背景にはコロナ禍の影響で観光客が来なくなり、深刻な経済的ダメージを受けた沖縄県の事情もある。
コロナウィルス感染拡大の影響で物流が遮断され、観光客も来なくなった。作物を売ることができない農家は厳しい状況下におかれた。
こうした農家の苦境を少しでも救おうと稲嶺社長は努めて、沖縄産の農作物を使う。
「ジミー」自身もコロナウィルス感染拡大時、スーパーマーケット、ベーカリー部門は客足も絶えることがなかったので、ダメージを最小限に抑えることができたが、大山、那覇、美里などの大型店に併設されたレストランの客足は大幅に減った。
激変する周囲の環境 新たに獲得したい客層とは
創業時と比較して、「ジミー」を取り巻く環境も大いに変わった。創業者の盛保氏の時代はモノがない時代だった。今は沖縄も豊かになり、「ジミー」のケーキは沖縄の各家庭の食卓で、誕生日や卒業祝いなど、お祝い事がある度に家族で食べる定番メニューとなった。
沖縄が豊かになり、世界的な観光地となっていく中で、来年8月に沖縄県南城市で開店が予定されている「コストコ」に象徴されるようにグローバル企業の沖縄進出も増えている。また、本土から進出する店の中には「ジミー」と類似したケーキやクッキーを出す店もある。
「企業は、時代対応業である。生き残るためには改善を積み重ねていかなければならない」と話す稲嶺社長は伝統の味へのこだわりを保ちながらも時代への適応の必要性をひしひしと感じている。
企業の未来像について、息子で、創業者の孫にあたる取締役の稲嶺盛哉氏(27歳)は現在の客層の中心が50代から60代と高くなっていることを指摘した上で「100年企業を目指す中で新規のお客さんの獲得を目指さなくてくはらならない」と話した。
ターゲットにしたいのは30代の子育て世代の女性だ。「那覇店」にはグロサリー、デリカテッセン、ベーカリー、レストランが集約されているが、一般的な総合スーパー(GMS)と比較するとその規模は小さく、その分買い物がしやすい。高齢者の方はもちろんのこと、時間に追われる子育て世代の母親たちには小さな店の方が使い勝手が良い面もあるだろうとみている。
稲嶺取締役は「レストランでのお食事の後はグロサリーで子供向けの商品も購入して頂き、ワンストップでお食事もお買い物もできる利便性を感じてもらいたい」と語る。
ジミーの大型店舗となるスーパーマーケット機能とレストランを兼ねた那覇店と大山店を訪れたが、地元客の他に、中国、台湾、韓国からの観光客も訪れていた。「ジミー」の味は、本土に加え海外からも注目を集め始めている。