評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)
「ペガサスクラブの悲願」を結成から年で実現したが──
ダイエー創業家の中内兄弟の相剋(そうこく)は、一難が去れば、また一難が降りかかるという具合で、企業として成長が著しいほど、いつまでも陰で燻(くすぶ)り、蠢(うごめ)きつづけていた。
なぜ、こうしたことをいまさらながら追っていくか。
小売業で売上高日本一にのぼりつめたダイエーは、この国のチェーンストアにおいて、たしかに輝かしい模範であり、誰しもが認める開拓者であった。チェーンストアだけにとどまらず、のちにつづく企業にとり、広く手本となった。日本のチェーンストア初めての本部の設立や株式上場、ナショナルブランドメーカー品の定価破壊、そして価格破壊、プライベートブランド商品づくりと、ダイエーが真っ先になし遂げ、取り組んだ試みも枚挙にいとまがない。
同時に、経営に行き詰まった顚末(てんまつ)もまた、あまたの教訓を残している。トップランナーであるがゆえに、背負わなければならなかった宿命も、背負わされなければならなかった理不尽もあったことも見ておく必要がある。
そうしたうえでなお、中内㓛が陥っていた隘路(あいろ)より目を背けてはならないと考えるからである。中内㓛と弟たちとを巡る諍(いさか)い、そして、合法だが甚だしく非常識であると批判されなければならない奥の手を使ってまで子息たちに強引に経営を禅譲しようとした無惨な公私混同は、やはり厳しい評価にさらされなければならないであろう。
主婦の店ダイエー第1号を出店したときから事業のパートナーであり、財務面では中内㓛以上の能力と経験を持っていたと衆目の一致する末弟の力を放逐(ほうちく)するとともに、彼の神戸商科大学時代の級友で、成長の屋台骨を支えてきた古参の幹部たちをも次々と引きずり下ろしていった粛清同然の非情な仕打ちは、とてもまっとうな経営判断だったとはいえないであろう。
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