第274回 ダイエーとダイソー、2000年の交わりとその後の真逆の運命

文=樽谷哲也(ノンフィクションライター)
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

中内㓛の意向の背後に渥美俊一の指導あり

 1960年代の終わり、ダイエーが「首都圏レインボー作戦」と称して東京進出を図り始める矢先、砂糖の主力商品を、三井製糖の「スプーン印」、日新製糖の「カップ印」、名古屋精糖の「ママ印」のいずれで統一するかという、当たり前のスタートラインを引くところで、早くも蹴躓(けつまず)いた。当時、首都圏ではスプーン印と相場が決まっていた。だが、ダイエー本部は、取引銀行のひとつである東海銀行との縁から、東京の新しい店舗でも、関西と同様にママ印で統一せよとゴリ押ししてきた。全国的には3つのうちで最も知名度の低いブランドであった。

 チェーンストア経営にあたっては、売り場や商品構成、従業員の作業や社内で使う用語などについて、仕様とシステムの標準化、そして統一を図ることが重要となるというのは、渥美俊一が唱えた初歩の原則である。ペガサスクラブの発足メンバーで、名実ともにその代表格であるダイエーと社長の中内㓛こそ、渥美の教えに最も忠実であった。

 東京の出店開発責任者であった商社出身の打越祐(たすく)は、東京大学法学部で同級だった渥美の紹介でダイエーに転じていたこともあり、そうした内情が手に取るようにわかっていた。中内㓛の意向の背後に渥美俊一の指導あり、と。

 打越は、「渥美さんとも喧嘩(けんか)しました」と勇まし気に述懐した

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