第267回 かつての側近が「ダイエー中内㓛より優れた経営者」という末弟・中内力の苦悩

文=樽谷哲也(ノンフィクションライター)
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

渥美俊一の指導により、福岡・天神へ出店

 長男で社長の中内㓛と末弟で専務の力(つとむ)が率いてきた「ダイエー」と、次男の博が父・秀雄を後ろ盾にして「サカエ薬品」を母体に始めた「スーパーサカエ」は、店舗数が増えていくにしたがって互いに客を奪い合い、兄弟で同業を営んでいるのに、協力し合うどころか、互いが商売敵(がたき)になっていくという抜き差しならぬ深みへとどうしても陥(おちい)った。すでに記してきたように、ダイエーの西宮本部ができた1963(昭和38)年にスーパーサカエが兵庫・尼崎に出店しようとすると㓛が「あそこは全然あかんで。やめとき」と博に忠告したことに従ったのに、気がつくとダイエーがしゃあしゃあと新店を出した。大阪・茨木へのサカエの出店構想を知ったときも、やはりダイエーが強硬に店をオープンさせ、機先を制している。長兄の意地とプライドを認めるとしても、どうにも分(ぶ)はよくないであろう。

 合併案は幾度も持ち上がったが、そのたびに交渉は決裂した。新会社の所有株の割合について中内㓛が「俺が51%を持たんだら、絶対にやらん」と譲らなかったのだから、話し合いがまとまるはずもなかった。博にとっても、わざわざ吸収されるための合併案に唯々諾々(いいだくだく)と乗るつもりはなかったからである。

 たびたび《渥美教の一番弟子》と自称していた中内にとり、チェーンストア志向の企業として初めて本部をつくった1963年は、我こそ日下開山(ひのしたかいさん)なりと勢いに乗っていた時期であったかもしれない。

 日本リテイリングセンター(JRC)発行の月刊機関誌「経営情報」ペガサスクラブ25周年記念特集号上巻・1987年6月号への寄稿に、中内は、およそ四半世紀前のことを振り返り、《渥美先生の指導で、いちばん印象に残っていることは、昭和38年、福岡天神店を出店するに当たっての経緯である》と記している。

 《本格チェーン化を、大阪と東京で展開するつもりだった私に、/「中原で闘いをするのは、もっと巨大になってからだ。弱い地域から攻めるべきだ」とおっしゃって、山陽道の三原から九州の福岡まで立地調査に同道してもらった。その結果が今日のナショナル・チェーンの基礎になった》

 また、やはり渥美の指導により、積極的な採用活動を始め、大卒1期生18名がダイエーに入社するのも、同じ1963年のことである。

 サカエとの争いが尾を引いているだけでなく、兄弟ふたりが中心となって成長させてきたはずのダイエーにあってさえ、相剋(そうこく)はあった。

兄と弟による分割統治経営

 これまで記してきたとおり、上田輝雄の経営する食肉加工会社「ウエテル」の取締役を兼ねるなど、

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