第258回 渥美俊一が語る「吉野家が100人に2人しかいない優秀な人材を集められたワケ」

2020/09/19 05:55
文=樽谷哲也(ノンフィクションライター)
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

200店を超えて迎えた絶頂

 牛丼チェーンの雄となる吉野家は、ペガサスクラブに入って以後、単独店経営から脱し、社長の松田瑞穂の強い牽引力(けんいんりょく)のもと、順調に店舗数を増やしていった。1年に10店舗前後の増加であり、総数は1974(昭和49)年は31店、75年は40店、76年が50店と推移していた。

 やがて経営の行き詰まった吉野家を再建すべく、中興の祖として長く率いることになる「ミスター牛丼」こと安部修仁(しゅうじ)は、2000年10月にペガサスクラブの主催で開かれた「急速成長企業のトップ体験発表会」で、その後の店舗数の急増について、次のように振り返っている(談話の引用は「JRCレポート」第96号〔2001年1月発行〕より)。

 《昭和51年(1976)年からは毎年倍増です。ただし、50店までは人の面ほかいろいろな面で蓄積しながらやってまいりましたから、50店から100店になる昭和51、52年段階では、それほどのムリはなかったと思います》(カッコ内、引用者)

 記憶とデータを元に明晰(めいせき)に語る安部は、「牛丼の父」と敬われた松田のオーナーイズムによる危うい経営の大きなウイークポイントについて、《当時の吉野家の財務体質です》として踏み込んでいる。

 《資本を充実させないままフローに偏(かたよ)った財務体質であり、しかも、そういうアンバランスのまま、主力銀行(メインバンク)もなく、その中で急速出店を続けておりました》

 メインバンクを持たぬ経営を渥美が強く否定していたことは、前回にも記した。

 安部の回想するとおり、1977年7月に100店を突破し、翌78年6月には東京のホテルオークラ(当時)で200店突破記念パーティーを開催している。直営制だけでなく、フランチャイズ店のオーナーを招来することで、年ごとに倍々ゲームで店舗数を増やしている松田の絶頂は、おおむねここまでであった。

 安部は、かつて喜びに浸った日から、遠からず一転して苦しみに見舞われた複雑な心中を明かすように語っている。

 《昭和52(1977)、53(78)年の100店から200店になる段階では、1年で100人の店長をつくらなければならないことを始めとして、あらゆるもののクオリティを相当落とさざるを得なくなりました。それでも、昭和54(1979)年には店数を272店にまで伸ばしております》

 東京の築地中央卸売市場の一フードコートから発展して200店にまで至ったチェーンは吉野家以外にないと強調し、松田の情熱と手腕への高評と敬意が変わらぬことを、安部は改めて繰り返した。

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