北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けている。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第3回は、同じチェーンストア理論を導入したにも関わらず、なぜ成功した企業と挫折した企業に分かれたのかを、ニトリとコープさっぽろを引き合いに出して、比べてみます。成功に導いたのは、何だったのでしょうか。
コープさっぽろの挫折 捻じ曲げたチェーンストア理論
1960年代後半、渥美俊一氏のチェーンストア理論を忠実に実践し、北海道が流通後進地から脱却する礎をつくった札幌市民生協(現コープさっぽろ)の経営に異変が生じたのは、70年代に入ってすぐのことでした。
70年10月末の決済資金が1億円も不足することが明らかになったのです。この危機は、最大の仕入れ先である日本生活協同組合連合会が商品代金を1カ月繰り延べることで、何とか乗り切ったのですが、事態はその後も悪化の度合いを深めていきました。
同年11月から12月にかけて4つの新店を開店させると、在庫資金が枯渇し、商品を確保できなくなったのです。フロアの真ん中に紅白の幕を引き、半分のスペースで営業を強いられる店も出るというありさまでした。
なぜ、こんな事態になったかと言えば、コープさっぽろが途中からチェーンストア理論の原則を曲げてしまったからです。
渥美氏が「ビッグストアへの道」第1巻「小売業成長の秘密」(67年)の中で、チェーンストア経営の基本思想として、持てる力を狭い範囲に注ぎ込む「集中主義」と特定領域で地域一番を続ける「一番主義」を挙げていることは、前回紹介しました。
<百貨店は、より多くの商品ラインをねらうのに対し、こちらは、最も有利な部門についてのみ、徹底して一番主義をとろうと、しぼるのだ>(「小売業成長の秘密」p80)
創業直後のコープさっぽろはこの原則を守り、150坪の規格化された食品スーパーを前年の2倍ずつ増やす出店政策を実行。創業わずか5年半で「ビッグストア」(年商50億円超)に成長します。ところが、この過程でたった一つ「過ち」を犯していました。
69年の衣料品販売への参入です。従来展開してきた平屋建ての食品スーパーに2階部分を設け、売場面積を倍の300坪に拡大。1階で食品、2階で衣料品を扱う新型店舗を半年間で一気に7店舗出店したのです。
その結果起きたのが、回転差資金の急激な減少でした。回転差資金は、商品の販売回転日数と仕入れ先への支払勘定回転日数の差によって生み出される資金です。例えば、商品が仕入れ当日に売れたとし、仕入れ先への決済が2カ月後だとすると、商品代金はまるまる2カ月間、手元に残る。商品販売量が増え、決済金額が大きくなるほど回転差資金も巨額になっていきます。
回転差資金は、銀行借り入れなどと異なり、調達コストがかからないため、多店化を進める上で最も重要な財源となります。60年代後半のコープさっぽろの高速成長はまさに回転差資金をテコにして実現したものでした。
ところが衣料品に手を広げた途端、回転差資金が急減してしまった。それも当然です。食品と比べ、衣料品は単価が高い代わりに商品回転率が低く、現金化に時間がかかる。天候や流行、顧客の嗜好によって売れ行きが左右され、当たり外れも大きい。食品に専念していた時には潤沢だった回転差資金が、衣料品を扱う店の数が増えるごとに目減りし、その行き着いた先が資金ショートであり、在庫資金の枯渇だったというわけです。
北大生協時代から学外店舗で経験を積み上げてきた食品とは異なり、当時のコープさっぽろには衣料品販売のノウハウが全くなかった。そうした分野に参入すること自体、「集中主義」「一番主義」から逸脱する経営判断であり、急速な経営悪化はその報いだったと言えるでしょう。
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ニトリが圧倒的に成功したたった一つの理由
ダイエーも犯した失敗とは
もっとも、こうした指摘は半世紀たった今だから言えることです。当時、国内小売業の売上高10傑のうち9社までを占めていたのは百貨店でした。1カ所で生活に必要な商品すべてを買える「ワン・ストップ・ショッピング」の利便性を消費者が求めていた時代でもあった。
67年の時点で、百貨店(総合小売業)の限界を喝破し、「企業の持つ資本、技術、人材には限りがある。片端から手をつけてゆくことはやめ、何か少数のことのために、全能力を集中しよう」と、特定分野に経営資源を集中するよう呼びかけた渥美氏はさすがと言うしかありませんが、この忠告に素直に耳を傾けた経営者が当時、どれほどいたでしょうか。
渥美氏の門下生で当時、最も成功を収めていた中内㓛氏のダイエーは63年、神戸の三宮に「S.S.D.D.S」(セルフサービス・ディスカウント・デパートメントストア)なる地上6階、地下1階の巨艦店を開店。これによって日本型総合スーパー(GMS)業態を確立し、72年には三越を抜いて小売業日本一に上り詰めました。
食品店や衣料品店から身を起こした経営者の多くが「疑似百貨店=GMS」を一つの到達点と捉えていたのです。そうした時代背景を踏まえれば、当時のコープさっぽろが“素人同然”の衣料品に手を広げた経営判断も一概に責めることはできないでしょう。
チェーンストア理論を忠実に実践し、北海道流通に革命をもたらしたコープさっぽろは、こうしてあっさり挫折してしまいました。だが、それと入れ替わるようにチェーストア理論の新たな申し子が登場します。ニトリ(現ニトリホールディングス)創業者の似鳥昭雄氏です。70年代前半に渥美氏の著作に出合い、感銘を受けた似鳥氏は78年にペガサスクラブに入会し、渥美氏が亡くなるまで師弟関係を続けることになります。
「マジック」ではなく「ロジック」…「やるなら、まるごと全部採り入れないとうまくいかない」
札幌の一介の家具販売店が、チェーンストア化によって購買力を高めた結果、メーカーから価格決定権を奪い、ついには商品開発の主導権も握って、良質安価な自社企画商品を次々生み出していく-。こうしたニトリの成功の軌跡は「渥美先生の教えを信じてやり続けた」結果であると似鳥氏自身が公言している点は重要です。
似鳥氏の著書「ニトリ 成功の5原則」(朝日新聞出版)に象徴的なくだりを見つけることができます。
<先生はよく「いいところだけを取ってこようとしてもダメだ。やるなら、まるごと全部採り入れないとうまくいかない」と言っておられました><私たちはそれを素直に学び、いいとこ取りをしようとしたりせずに、まるごと全部実行していった。それによって大きく成功することができたのです>
チェーンストア理論に自己流のアレンジを加えて失敗していく。そんな経営者たちに対する渥美氏の忸怩たる思いが伝わってくるかのようです。
「似鳥さんのよさは素直さとフレキシビリティだ」。渥美氏は生前、そうも語っていたそうです。日本の流通・外食業界でチェーンストア理論の影響を受けていない企業を探すのは困難ですが、似鳥氏ほど「素直」に理論を実践し続けた経営者はいないのではないでしょうか。その結果が、2019年2月期まで32期連続増収増益という圧倒的な成功です。
60年代後半にコープさっぽろが北海道で取り組んだ「チェーンストア理論の実験」は、ニトリに引き継がれて大きく開花したという見方もできるでしょう。北海道流通の競争力は、経営者の勘やひらめきといった「マジック」(魔法)ではなく、体系化された「ロジック」(論理)によってもたらされたのです。