『ZOZO離れ』せざるを得ない、アパレル業界の危機的状況と処方箋

河合 拓
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ZOZOの事業構造は、ZOZOだけが「一人勝ち」し、リスクはアパレルが背負うものだ。それでは、なぜ、そのようなビジネスモデルが加速し拡大していったのか。当時、アパレル企業の内部に入り込み、クライアントとともに事業を推進していた私が当時感じたのは、「この業界は本当に論理思考が弱い」という残念な事実だった。

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かつてはシンプルだったアパレル業界の勝ちパターン

 あえて、単純化して話を進めるが、実態はこのようなものだった。

 アパレル業界には、今でも「売上至上主義」が残っている。日本の90%以上のアパレル企業が非公開だから、極論を言えば「利益や在庫などどうとでもなる」と考えている。利益は開示しなければよいし、在庫はBS(バランスシート)に残しておけば資産となる。私は、こうした非公開企業に、公開企業の会計ルールを適応し実態を明らかにする、いわゆるビジネスデューディリジェンスを日本でも最も多くやっている人間の一人だ。そして、そのたび、その恐ろしい状況に背筋が凍り付くような感覚に襲われたことは数度では無い。こうした状況の背景を説明しよう。

  まだ、ネットが黎明期だった時。例えば、街のシンボルと呼ばれるメガ百貨店に出店することは、自社商品を泊付けし、ブランド化する上でとても重要なことだった。例えば、私が立ち上げに関与したブランドを何より早く世に知らしめる最もよい方法は、1店舗で2000億円以上も売り上げる世界一のモンスター店舗、伊勢丹新宿店に出店することだった。

  うまく、同店舗に出店ができれば(その非常に高い家賃見合い<百貨店との取引は、家賃相当分の金額を引いた下代で商品納入する>はあるが)売上と知名度は上がり、そして、なにより他店舗での好影響も期待でき、家賃を広告宣伝費とみれば、十分にペイできるものだった。しかし、その敷居の高さは折り紙付きだった。

  苦労をして同店に出店が叶ったときは、クライアントとともに大喜びしたものだった。当時、「街のシンボル」であった影響力の強い百貨店が日本の至る所に存在した。名古屋駅の高島屋、大阪梅田の阪急などである。こうした、百貨店の「ブランド館」に出店することで、市場での認知度や好感度を高め質の高さや格の高さを知らしめる。これが、1990年代の勝ちパターンだった。

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ECビジネスの本質を誤解したところから、悲劇が始まった!

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