北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けている。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第2回は、学生ベンチャーの気質で、チェーンストアづくりを北海道でいち早く行ない、当時高かった北海道の物価を引き下げた革新的な組織を掘り下げます。
かつて北海道は物価が高かった
今からおよそ半世紀前、「北海道価格」という言葉が、北海道民の間で流行していたのをご存じでしょうか。これは当時の北海道における構造的な高物価を揶揄したものであり、前回紹介した「北海道現象」とは似て非なるネガティブな意味合いが込められていました。
実際に北海道の物価がどれだけ高かったかは、北海道庁発行の「経済白書-北海道経済実相報告」1964年版に記されています。
60年の日常品の物価は、東京を100とした場合に札幌は108.2と8%も高かった。この日常品の比較対象の中には石炭が入っていません。厳冬期の燃料代がかさむことを考えれば、道民がいかに苦しい生活を強いられていたかが分かるでしょう。
当時の北海道は、生活物資のほとんどを本州のメーカー(工場)に依存していました。道内の卸・小売りに本州の大手企業と対等に取引できる力はなく、いきおい売り手の都合で価格が決まっていきます。
「積雪寒冷に対応する経費が必要」「本州からの運賃がかかる」など、メーカー側の言い分によってコストがどんどん上乗せされ、割高な価格が形成されていったのです。
こうした理不尽な「北海道価格」を変える組織が登場するのは65年のことでした。札幌市民生協、現在のコープさっぽろです。
コープさっぽろの“特異”な成り立ち
生協は本来、地域の消費者がお金を出し合い、自分たちのほしい商品を確保するという組合員主導の組織です。その点、コープさっぽろの成り立ちは特異なものでした。
コープさっぽろをつくったのは、北海道大学の大学生協(北大生協)で活動していた学生たちです。
戦後の47年に発足した北大生協は、極端に物資が不足していた時代に、学生や教職員にノートや本を供給し、学生食堂を通じて食事を提供する事業を始めました。北大キャンパスは国内の大学でも有数の広さを持つことから、学部ごとに売店や食堂を運営するなど、どんどん事業基盤を拡大し、ついには学外に店を持つまでになります。
51年ごろ、北大キャンパスから約2キロ北のエリアに北大教職員の官舎が整備され、「大学村」と呼ばれるようになりました。当時は周辺に商店街もなく、教職員たちは日々の買い物にも苦労する状態でした。そこで北大生協の学生たちは58年から、大学村に出向いてご用聞きを始めます。その後、近隣の個人商店が空き店舗になったのを機に、この物件を取得し、61年に北大生協大学村店を開店させたのです。
この学外店舗の評判はよく、63年には組合員700人に対し、年間8000万円を供給するほどに成長しました。現在の貨幣価値に直せば3億円規模になります。ところがこれが、大学当局をいたく刺激する結果を招いてしまいます。
大学生協は学内で厚生事業を行うに当たり、施設の賃料や水道光熱費を免除されている。その特権を使って「学外活動」を大々的に行うことは認められない-というのが当局の言い分でした。「資金援助打ち切りも辞さない」と迫られた北大生協は、大学村店を切り離す決断をします。その受け皿としてつくられたのが、コープさっぽろだったのです。
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チェーンストアづくりに影響を与えた、1冊の名著
生協というよりも学生ベンチャーに近い組織
このようにコープさっぽろは、「札幌市民生協」という創立時の法人名とは裏腹に、市民運動とは無縁の形で誕生した異端の生協です。キャンパスの中から外へひたすら事業を拡大し、スピンアウトしたという経緯をたどると、生協というよりは学生ベンチャーに近い性格を持つ組織だったと言えるでしょう。
発足当初のコープさっぽろは、持ち前のベンチャー気質をいかんなく発揮。最新理論を忠実に実践し、北海道の流通業界に革命を起こすことになります。その最新理論こそ、渥美俊一氏が唱えるチェーンストア理論でした。
たった一つの店を繁盛店にしても成長は頭打ちになる。売上高を年2倍ずつ増やすため、周辺の消費者の大部分が買い物に来る大きさの店の数を精力的に増やせ-。渥美氏は67年8月に出版した著書で小売業の経営者にそう呼びかけました。「ビッグストアへの道」の第1巻「小売業成長の秘密」です。
この本で渥美氏は、チェーンストア経営を軌道に乗せるには、持てる力を狭い範囲に注ぎ込む「集中主義」、特定領域で地域一番を続ける「一番主義」が大切だと主張。業態や取扱商品を特定分野に絞り込むことや、余分な資産を持たずに店舗拡張と店数の増加にのみ資金投入することを提言しています。
コープさっぽろが68年5月に策定した第1期中期経営計画には、この名著の影響が色濃く表れています。70年度までの3年間で「食品流通の1割をまかない、業界第1位を目指す」ことを目標とし「供給高の年率100%成長をはかるため、すべての財源を新店開発に注入する」「食品を中心に地域一番の大型店舗をつくり、規模の利益を追求する」などの基本政策を打ち出しました。
その結果は<表>の通りです。毎年の最終損益をゼロとし、すべての資金を出店に回す「集中主義」を順守。150坪の食品スーパーを前年の2倍ずつ増やしていく出店計画を遂行しました。規格化された店を2倍に増やせば、供給高も自動的に2倍になります。渥美氏が「小売業成長の秘密」で書いた「売場面積を2倍にすれば、売上高は、楽に2倍になる」という主張を見事に実践してみせたのです。
チェーンストア理論の“実験”により、北海道価格は引き下げられた
コープさっぽろによるチェーンストア理論の「実験」がもたらしたインパクトは極めて大きかった。メーカーとの力関係が変化した結果、札幌の平均物価は67年に初めて東京を下回り、「北海道価格」は徐々に陰を潜めていきます。
コープさっぽろは多店化を急ぐため他人資本(金融債務、組合債)を多用し、回転差資金※も出店に回しました。組合員の出資金を地道に積み上げていく生協の基本から逸脱した手法であり、後に経営難を引き起こす一因になります。※仕入れた商品が売れて現金化するまでの期間と商品代金を支払う期間の差
しかし70年末時点の札幌の食品スーパー店舗数でコープさっぽろの33店に続くのは、札幌フードセンター(現マックスバリュ北海道)の9店、大丸スーパー(現アークス)の7店に過ぎず、チェーンストアの要件(11店舗以上)さえ満たしていませんでした。コープさっぽろの大胆(無謀?)な挑戦がチェーンストア理論の有効性を証明し、北海道が「流通後進地」からいち早く抜け出したこともまた事実なのです。