「アパレルはオワコン」は勘違い!日本アパレル復活に商社が果たしてきた役割と不可欠な理由

河合 拓
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繊維産業に商社が果たしてきた役割

Liuser/istock
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 ここで、商社の歴史を知らない若い人達のために、日本の商社がなぜ生まれ、なぜいま成長産業である繊維産業にとって商社はなくてはならない存在なのかを説明したい。

  伊藤忠商事を筆頭に、丸紅、トーメン(元東洋綿花)、ニチメン(元日本綿花)、兼松など、非財閥系の総合商社は、ほぼ全て繊維問屋だと言うと、今の若い人は驚いて、一様に信じられないという顔をする
 商社というのは、日本の基幹産業の一つだった繊維産業の輸出の担い手だったのだ。今でこそ、伊藤忠商事が、ほぼ全ての繊維産業の中核商社として君臨しているが、そもそもこれら巨大商社は日本からシルクや綿花、ウールから化合線繊維を輸出するために存在したといってもよい。

  戦前戦後、日本は官民の連携が極めてうまく行き、製造業は、あたかも日本株式会社生産部、商社が日本株式会社営業部、そして、銀行が日本株式会社経理部の役割を果たし、世界に天然繊維、化合繊繊維を売りまくって国の資産を増やしてきた歴史があった。
 だから、バブルが崩壊した1991年、私が商社マンとして入社したイトマンは、100年の歴史を持つ大阪の名門繊維商社だったし、私が配属された海外繊維本部は、旧安宅産業(10大商社の一つ)のエリート部署だった。当時、東京大学を出たエリートは官僚になるか、東レ、東洋紡、カネボウ、帝人などの繊維メーカーに就職し、彼らとお付き合いすることは商社マンとしての醍醐味だった。

 失敗した南下政策と失った代償

 1970年ごろ、GNP(国民総生産、当時はGDPではなくGNPを使っていた)で世界第二位、資産でいえば世界一の金持ち国家となった日本。その後、超円高になり1ドルが80円を切るほどの水準となった。この時点で、日本の製造業は世界中の優良企業を買収していった(そのほとんどが今は失敗となったが)。
 また、大きく円高に振れた日本のアパレル企業は輸出が壊滅的となり、使い切れないほどの資産を持つ内需に目を向け、三菱商事、伊藤忠商事、三井物産などがアルマーニなど、世界の超高級ブランドを日本に輸入し、オンワード樫山、三陽商会がこれを受け持ち、百貨店を販路に売りまくった。この戦略は見事にあたり、高級ブランドは売れに売れた。ここでも、繊維原料から織物の輸出ビジネスからOEMビジネスに大きく舵取りを変えたのが商社だった。

  しかし、ここで商社は大きなミスをする。それは、「南下政策」だ。今になって島精機製作所のホールガーメント(無縫製ニット)がもてはやされているが、この技術は当時、90年代からあったにも関わらず、今でいうデジタル化、自動化を怠った。そして、中国大陸から東南アジア、タイ、そして今ではアフリカの隣まで、人件費の安い国を渡り歩いていったのだ。作った工場もノウハウもすべてスクラップしては作り、作ってはスクラップする、を繰り返し、日本で余剰となった技術者をアジアに送り込みハンズオンで指導をさせることで、品質を担保しながら為替変動に耐えたのである。冒頭の半導体工場の再設立を見ると、そのことを思い出す。

  いつしか、この南下政策は、日本の国力減退によるコスト競争に変わって行き、商社自らの存在意義さえも無力化させていった。こうして、過去30年の歴史の中で、ニット製品は「国産」が日本から消滅したが、梳毛と言われるウール、化合線繊維、ジャージーの一部やデニムなどは、個別企業の戦略により世界のトップメゾンと組みブランド力を高め、新しい機能性素材を世界に先駆けて開発するなどして生き残っていった。しかし、彼らはごく少数となり、商社の高い固定費をまかなえるほどの物量は期待できなくなり、市場規模は90年の15兆円をピークに、今では7兆円と半分になっている。これがコストを追い求め、近視眼的視座で蓄積したノウハウを簡単に捨てた代償である。

 

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