第297回 ダイエー2人のカミナリオヤジとリクルート再建に未練を残した高木邦夫

ノンフィクションライター:樽谷哲也
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

「衆議独裁」とは

 中内㓛がよく口にしたと伝わる「衆議独裁」は、渥美俊一の教えの影響も多分にあったのではなかろうか。本来、決して負の意味を伴う熟語ではない。広く意見、討議を重ね合った末に、責任者が自ら断を下して結論を導くことを意味する。弟の力(つとむ)の去ったあと、ダイエーにおいて、中内㓛は、この衆議独裁のあり方がより極端になっていったといわなければならぬであろう。

 神戸ポートピアホテルを竣工してダイエーとは別世界といっていいところで生きる道を身一つで切り拓(ひら)いていった血を分けた実弟の力を露骨につぶしにかかるように、周辺に高層ホテルを次々と開業させていく中内㓛には、執念、経営者の性(さが)といったありきたりの形容では事足りない非情を見た。

 中内㓛から頼まれたわけでもないのに、渥美俊一はダイエーの幹部たちと、押しかけ同然に次々と面会を重ねていった。「ダイエーをこの連中に任せておいて大丈夫なのかな、と思って心配だったから」という理由によってである。経営コンサルタントとしていかに深く長い指導歴があるとして、ここまでできるのも、また、実行に移すべく腰を上げるのも、渥美俊一以外にいないであろう。他方、ダイエーの幹部たちにとって、渥美俊一はひとりの経営指導家として気軽に会えるような存在ではとてもなかったろう。入社してまもないころから、ルールと指導があまりに厳しいペガサスクラブのセミナーへ放り込まれてきて、さんざんな経験を例外なくしているからである。

 渥美の説く従業員教育の重要性を率先して採り入れ、実践したペガサスクラブ会員企業の代表格がやはりダイエーである。積極的な採用活動を始め、1963(昭和38)年には18名の大学新卒1期生がダイエーに入社する。ペガサスクラブ結成の、まだ翌年のことである。この当時にダイエーに入社したのちの幹部に話を聞くたび、中内㓛について「うちのオヤジ」、「カミナリオヤジ」と苦笑交じりに形容していたのを思い返す。渥美俊一についてもまた、「すぐにカミナリを落とす先生」、「うちのオヤジとおなじくらいおっかない人」と評した幹部もいる。

 そうした、会社のオーナーでも上司でもなんでもない、いわばもうひとりの「カミナリオヤジ」がほとんど有無をいわさず個別に面会を求めてくるのだから、困惑しないはずはなかった。渥美は、「一対一で、ひとりに、ときには何時間もかけて」面会したと明かしている。時期としては、味の素の社長を務めた経歴を買われ、ダイエーの副社長に迎えられていた鳥羽董(ただす)が第2代社長に就き、中内㓛が会長に退いた1999年1月からほどない時期のことである。ダイエーが経常赤字に陥ったことにけじめをつけるとした人事であった。

アクセルとブレーキを同時に踏む役回り

 たとえば、遠からず退任することになる当時の副社長に面会した際のことを挙げ、渥美はこう評している。

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