「必要は発明の母」と言われる。
その意味からすれば、子供のころから衣・食・住・遊・休・知・美と「なんでも揃っている」現代は、発明難の時代と言えるかもしれない。
「なんでも揃っている」ゆえの象徴的な行為は、コピー&ペースト(コピペ:パソコン上で文字をコピーし、別の場所に貼付ける行為)だろう。
自分の言いたいことが、すでにネット上に書かれて揃っているのだから、使わない手はないはない、とばかりに学生の論文はもちろん、企画書や手紙まで、コピペが横行している。
これを見破るために「剽窃チェッカー」なるサイトも現れるほどだ。
ある大学では、レポートでコピペが発覚した場合には、6か月の停学を命じられるそうだ。
ただ、そもそも論文とは、あるところ引用(=コピペ)のオンパレードであり、剽窃との違いは、出典を記すかどうかだけの話。だから「コピペに罪悪感を持て」と言われることに違和感を覚える者も少なくないのかもしれない。
しかしながら、新しいことを発明(発見)した人の血のにじむような努力については、やっぱり敬意を表したい。
発明王のトーマス・エジソンは、妻の顔と名前を忘れてしまうほど、研究に没頭したというエピソードを残す。
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹さんは、メモを枕元に置いて寝た。四六時中考え抜くことで、中間子理論にたどり着いた。
発明(発見)するとは、実に大変なことなのである。
さて、私の結論としては、「なんでも揃っている」のであれば、先達の知恵は、出所を記すことを前提に使ってもまったく構わないと思う。
ユニー(愛知県)の中興の祖の一人である家田美智雄さんは「社会人はカンニングしても構わない」という名言を残した。
ただ、それだけが恒常化して身についてしまうと、何かを生み出す能力が退化し、ひいては、世の中が閉塞化していく恐れがあることも考えなければいけない。