ケータイやパソコンの普及によって暗記を強いられることはほとんどなくなった。
電話番号はケータイが教えてくれるし、何かを知りたければググればいい。だから現代人の記憶能力は、以前との比較で言えば、きっと物凄いレベルで落ちているに違いない。
同じように、最近は、《考える力》というのも低下しているのではないかと思うようになっている。
それというのも、最近の思考とは、ケーススタディ主義に偏りがちで、先達のやってきた膨大な経験や歴史を、自分の記憶の書棚やコンピュータのメモリーに入れ、必要に応じて出し入れしているだけ。すなわち、有事の際には、過去の似たようなケースにあてはめて、情報を出し入れして対応しているに過ぎず、それがうまくできる人たちを「秀才」と崇めている気がするからだ。
TV番組やラジオ番組のコメンテーターのコメントは、その最たる例であり、過去に聞いたようなものに溢れ、オリジナリティを見出すことは難しい。
それゆえに、原発事故後の後処理の問題のように、ケーススタディがない事態に直面するとすぐにあたふたしてしまう。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というプロシアの宰相ビスマルクの名言もあるので、ケーススタディ主義は、批判の的になるような類のものではないかもしれない。
しかも振り返れば、これまでもケーススタディ主義はちゃんと機能し、多くの問題を解決してきた。
けれども、過去データから選択することばかりが重視され、それで大抵のことが済んでしまう社会には進化や進歩がないのでは、と一方では考えてしまうのである。