ジョイフル本田(茨城県/矢ヶ崎健一郎社長)を創業した本田昌也さんは、昭和5年(1930年)、茨城県小川町に生まれた。4人兄弟(姉、兄、弟)の3番目で実家は北関東ナンバーワンの材木商だった。子供の頃から、腕っぷしはからきし強く、柔道に明け暮れ、数多くの武勇伝の主として地元で名を馳せた。
青年期を経て、やがて家業を手伝うようになる。
家業の材木商――。本田材木店(現:本田〈茨城県/堀米孝造社長〉が珍しかったのは、取り扱う木材が建築用だけでなく、家具用など多岐にわたっていたことだ。
「ふつう材木商は、家を建てるための木材しか扱わないものですが私の家では、家具用もやっていました。産地を含め何でも知っていないと死活問題にかかわることになるので自然と木材全般について知識は蓄積されていきました」。
そうした経歴の持ち主であるゆえに、ジョイフル本田を創業して以後も、社内には木材の目利きで本田さんの右に出る者はいなかった。というよりは、木材の目利きでは、唯一無二の存在だったと言っていい。
「手取り足取り、何かを教わったことはありません。でも他人に迷惑をかけたら手厳しく叱られた。そういう両親でした」。
成人してからも本田材木店で働いた。ただ、そこは次男坊の宿命で、いつまでも家長である兄を手伝っているわけにもいかない。そこで本田さんは、父親が残してくれた茨城県土浦市の現在本部がある土地での起業を決意する。
「木材のことなら誰にも負けない自信があるけれども、兄弟で材木商をやっても仕方ない」と考えた。“売り貸し”だらけで、それほど好きな商売でもなかった。どんな事業を興そうか、逡巡を繰り返した。
ちょうどその頃、アメリカでは、ランバーヤード(材木商)が次々とホームセンターを目指した。倉庫を潰し、金物やDIY道具などを置いたところ飛ぶように売れたのだ。
アメリカに倣って、日本の企業もホームセンター経営に進出していく。1972年に日本初のホームセンターを出店したドイト(埼玉県/高橋光夫社長)の出身業種はタクシー会社。その後も、米穀業、燃料業、薬局、サッシメーカー、スーパー、金物屋など多くの業種がホームセンターに飛び込んでいった。
1974年、同業の材木商がホームセンターを開業して好調だと耳にする。
静岡県に本部を置く遠藤材木店(現:エンチョー/遠藤健夫社長)が富士市に大きな土地を借り、出店した店舗だった。
「これだ!」。本田さんは、膝を打った。
早速、エンチョーに行き、「学ばせて欲しい」と懇願した。同行した学校の3学年先輩で昵懇の間柄にあった地元家具屋の跡取り、山口健治さんとともに“弟子入り”を果たした。
「初めは山口さんと2人でホームセンターを起業しようと話していました。しかし、お互いに『うまいものは1人で食べた方がよい』ということになり、別々に起業することになったのです」。
2人は、紳士協定を結び、土浦市より北を山口さん、南を本田さんと出店エリアを決めた。山口さんが創設した企業は、現在の山新(茨城県/山口一郎社長)である。
本田さんは、エンチョーを師と仰ぎ、学んでいくうちに、思うところがあった。
もっとも疑問に感じたのは、1974年当時のエンチョーはアメリカのホームセンターをそのままマネしていたことだった。“人種の坩堝”の中にあるアメリカの店舗はセキュリティを徹底的に強化していた。
エンチョーは、その部分もそのまま日本に持ち込み、回転式の出入り口を設け、売場通路をワンウエーコントロールにするなど、すべてアメリカ流を貫いた。
また、材木商として働いていた従業員をホームセンターに異動して充当していた。
素人が新しい事業を始めるには、何から何までモノマネをしてみるのはひとつの鉄則だ。
日本に確固たる先達が存在しない段階で起業したエンチョーは、致し方なく過渡期的な対応として、アメリカ型のセキュリティ強化を導入したと推測することができる。
ただ、この店舗を見た本田さんは、アメリカ型の「客を見たら泥棒と思え」をよしとせず、「お客様は神様です」を貫く商売をしよう、という思いをより強くした。
創業に当たっては、対消費者(B2C)商売を意識して、スーパーや百貨店から従業員を採用した。異動をさせるような従業員を抱えていなかったことも新しい商売を始めるに当たっては有利に作用したと言える。
そして1975年に「楽しさいっぱい」という意味の「ジョイフル(JOYFUL)」に自分の苗字である本田をつけてジョイフル本田を設立。翌1976年には、1号店となる荒川沖店を茨城県土浦市にオープンした。
本田さんは、創業の精神について次のように話している。
「誰でもお客様至上主義を唱えるけれども、実際はなかなかできません。POSなんかは会社都合以外の何物でもなく、お客様の都合ではありません。だから、うちはずっとPOSを入れませんでした。実家で働いていたころから、お客様至上主義については考えていました。それをやり続けることが、結果として儲かると確信していました。儲けるために何をしたらいいかを考えていくと、お客様を大事にすることに行き着くからです。結果を先追いしたらだめなんです。すべてそう。こうやったら、お客様が喜んでくれるという繰り返しです。それはこうやったら儲かるという打算ではありません。結果はあとからついてくるのです」。
売場面積4万㎡、取り扱いアイテム数22万、駐車台数3500台、売上高150億円超――。
ジョイフル本田は、気の遠くなるような数字を並べる一店舗巨艦主義でホームセンター業界を長くリードしてきた。
では、本田さんは、経営効率をまったく考えていなかったのだろうか?
「もちろん効率については考えていますよ」と本田さんはことあるごとに強調していたが、その具体例を示すことはあまりなく、大抵は、すぐに次のような言葉を継いだ。
「ジョイフル本田の敷地面積は3万~4万坪。売場面積は3万~4万㎡。建設業者から物件が引き渡され、売場を一瞥すると、これが本当に埋まるのか、とぞっとしますよ。だけど、埋まるはずだと、信じるのです。たとえば、2002年に開業した千葉ニュータウン店(千葉県)では駐車場を3200台用意しました。しかし、それではきっと足らなくなるはずだと考え、そのほかに800台の駐車場を用意したのです。普通なら3200台の駐車場など埋めきれないという考えが先にいってしまうのでしょうが、そうじゃないのです。仮に3200台と考えてしまうと、売場も3200台用の売場になってしまう。それじゃあダメなんです。広すぎると思った瞬間、それだけの品揃えしかしなくなってしまうからです。でもそうじゃない。新しい店にお客様が来てくださるのかと不安に感じることはあります。恐怖すら感じます。しかし、大切なのはガマンの経営であり、ガマンのマーチャンダイジングだと思うのです」。
店内に22万アイテムの商品を抱える、ということは、それを取り扱う従業員の知識習得も大事な経営テーマになる。
本田さんは、従業員の知識習得については、ことのほか重視してきた。
たとえば、ジョイフル本田が扱う農業資材には、噴霧器、ヘアピン杭、防草シート、肥料や飼料や育苗ハウス、米袋…もあり多岐にわたる。
部門の担当者は、誰よりもこれら1品1品について知る必要がある。ただ、これを極めすぎると農業資材の担当者が農業資材のことしか知らない“専門バカ”になってしまう可能性がある。
本田さんは、「知識習得は大事だけれども、“専門バカ”なってはいけない」と話していた。
「木材の担当者が木材のことしか知らないというのでは困るのです。工務店さんが、建物の図面を持ってきたら、そこから即座に必要な商品を見極め、売場にご案内できるようにならなければいけません。しかも、商品には《関連》がありますから、《関連》も大事にしたい。この前、材木屋に勤めていた方が定年でやめて、お金はそれほどいらないけど、生きがいとして働きたいと志望動機を話してくれました。うちには、そういう人材に来て欲しい」。
また従業員のホスピタリティの教育にもずいぶんと力を入れた。
「自分たちにご飯を食べさせてくれるのは誰かと言えば、お客様です。売場にご案内し、何かを尋ねられたら説明するのは当たり前のことです。これは、パートだから社員だからとか、頭がいいとか悪いとかの問題ではありません。ローコスト経営や頭で考えた経営だとどうしても、行き過ぎたセルフサービスのような、いまの形になってしまうけれども、そうじゃありません」。
「CS(顧客満足)の要はES(従業員満足)にあり」と言われるようになる以前から、教育の一環として、男女やパートか社員かなどにかかわらず、勤続10年目の全従業員を1週間、海外に行かせるようにしていた。
海外研修についても考え方がまた粋だ。「宿題はなし。感動を味わうだけでいいから見ておいで」というものだった。これでモチベーションが上がらないわけがない。
商品知識を詰め込み、経験を積んだ従業員には、商品開発をさせた。
「カタチになったものを仕入れるだけなら誰にでもできます。自分たちで商品化する努力が必要なんです。だから問屋任せにはせず、自分たちで探しなさい」と鼓舞し続けた。
グローバルホームセンターを標榜しているとおり、ジョイフル本田は各国の大使館員にもよく知られた存在だ。新しい商品を開発するにあたって必要とする原材料や製品の窓口がどこにあり、担当者が誰であるかを聞くために大使館の門戸を叩くからだ。ただ、「聞きたいことを聞いてしまえば、その後は2度と来ない。あとは自社ですべてやっているようだ」と各大使館員は口を揃えてジョイフル本田の従業員を評した。
独立独歩。国家や行政をハナからあてにせず、自社商品開発に当たってきたのだ。
商品開発の要諦についても本田さんは社内で力説していた。
「たとえば、工具は先端が命なんです。だから値段ではなく、先端を意識しないといけません。それは目利きとかいうことではなく、考え方の話です。それがうちに定着しているかどうかはわかりません。でも教えてはいます。そしてそういうことが分かっていれば、働いていても楽しいはずです」。
製造小売業(SPA)という言葉が流通業界になかった頃から、着々と製造小売業化を進めてきたのがジョイフル本田だった。
本田さんは、仕事のほとんどの時間を店舗で過ごした。毎日が出勤日であり、よほどのことがない限り、休むことはなかった。お抱えの運転手も不休であり、休めるのはクルマの持ち主が海外出張している間くらいだった。
「本田さんは怪物だ。あの努力は他の人にはできない」。本田さんを小学生時代から知る幼馴染が余りの馬力に舌を巻いていたほどだ。
毎晩、ファックスで店舗別33部門別の売上数字が茨城県小川町の自宅に届く。気になる売場には、翌朝、直行し、「どうなっているんだ!」と発破をかける。
「売場は生きているので、継続させるには、しょっちゅう何か手を掛けないといけない」と本田さんは話していた。
誰もが成功を収めたと羨む本田さんは、しかしながら「ジョイフル本田は、失敗の連続でした」と振り返っていた。
ただし、失敗したと思っても、やめないのがジョイフル本田流だ。「やめるから失敗なのだから、やり続ければ失敗することはありません」。
その代表例として、ホンダ産業(茨城県/本田理社長)のアンティークショップ「オールドフレンド」を挙げていた。「在庫が多くて普通ではできない事業なんです。だから、『道楽でやっている』ととりあえず面倒だからみんなに言っています。実際にあれだけの在庫を持つのは大変で誰もマネはしません」。
本田さんの凄いところは、努力を積み重ねることで蓄積したノウハウを惜しげもなく供与してきたことだ。
現在は、アークランドサカモト(新潟県/坂本雅俊社長)、マキバ(神奈川県/山田恭三社長)、西村ジョイ(香川県/西村泰昌社長)、ジョイフルエーケー(北海道/木村勇市社長)、キムラ(北海道/木村勇介社長)の5社に技術供与をしている。
「もちろん、お金をもらっています。ノウハウの独り占めはうまくないと思うし、提携企業への商品供給でも儲かります。アークランドサカモトの坂本勝司(現:会長)さんが我が家に宿泊した時に、一緒に飲んでホームセンター論議に花が咲き、冗談半分で『うちに弟子入りすっか?』と水を向けたことが現実になりました」。
ジョイフル本田がホームセンター業界の発展に果たした役割も非常に大きい。
本田さんは、生前、「日本のDIY産業を引っ張ってきたのはジョイフル本田だと自負している。多くの企業が、金具や工具をやめていく中でガマンしてガマンして需要を創造してきた」と力を込めて語っていた。
「ガマンが新しい需要を創った」と豪語していた本田さん。
中途半端をせず、規模を重視し、ものづくりに取り組んだ豪傑は、売場で倒れ、2013年9月20日、そのまま帰らぬ人になった。最期まで本田さんらしかった。合掌。
なお、社葬は11月14日に催される。