通勤通学の電車やバスでは、老若男女がケータイのiモードやスマートフォンをいじっては眺めている。
ユビキタス社会は、確実に浸透しており、現代人にとっては、「いつでもどこでもだれでも」が情報を入手できる環境が整備されている。
ただ気がかりなのは、常に何かに追われるような形で、四六時中何かの情報源にアクセスして、情報入手に躍起になっているような感じがすることだ。
それは、それで悪いことではない。
しかし、情報をインプットし過ぎのきらいがあるような気もする。
その分、入手した情報を自ら咀嚼し、消化し、それをもとに考えるという行為にかける時間は減ってしまっていると思われる。
私ごとで言うなら、これまで通勤時間は、考えるための時間に当てていた。たとえば、このBLOGの内容や構成についても、大抵は通勤時間に考えていたものだ。
しかしいまや、それらはスマートフォンを覗く時間に取って代わってしまっている。
孔子が言ったように、「学(まな)びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」。
「教えを受けただけで、みずから思索しなければ、真理には到達できない」という意味になるが、これは現代人こそが留意しなければいけない金言だろう。