11月3日の「文化の日」は私にとっては「体育の日」。毎年、「ぐんま県民マラソン」の「ハーフマラソン男子の部」に出場する。もう10年以上も続けており、その年にまじめに練習したかどうかが現実として明らかになるリトマス試験紙のような位置づけになっている。
実際に、練習時間の多い年は成績も良く、しなかった年のリザルトには目も当てられない。
今年の場合は断然に後者。スポーツでやっていたのはテニスばかりで、スタートする前から自信がなく、ゴール時のイメージがまったく湧かなかった。
案の定、予感は的中。13キロ地点からまったく足が動かない。8キロも距離を残してこんな状態になることは初めてである。息切れもひどいもので、後ろからは、足切りタイムの使者であるパトロールカーが迫ってくる。
走りながら思ったのは、「何でこんなに辛いことをしているんだろう」という1点のみだ。立ち止まって、棄権の白旗を揚げてしまえば、もう走らなくてもいいのに、たった1枚の完走証のために、1歩でも前に行こうとしている――。
ぱらっ、ぱらっ、と周辺を走る人たちを、いつものレースでは敵視していたのだが、今日は何ともいとおしい仲間のように見えてくる。
左の太股を叩き、右膝のストレッチを繰り返し、2つの拳を痛くなるほど握りしめ、呼吸とも叫びとも判別のつかない音を出しながら、足を振って腕を振ること実に2時間20分。仲間が待ってくれているゴールにようやく戻ってこられた。
惨敗の無念と何とかゴールできた喜びと道中頭に去来した些事を年上の友人に話したところ、返ってきたのは、「それがアスリート精神だよ」という言葉だった。
「レースだから競争相手とのタイム差や順位は大事だ。だがそれ以上に大事なのは自分との競争なんだよ。日常生活では自分と正面から向き合うことなんてほとんどないだろ。でもマラソンにはそれがある。調整不足の時はなおさらだ。今日は自分との勝負に勝ったのだから胸を張っていればいい」。
練習を重ねて好順位でゴールした後の一杯も最高だが、試練と困難に耐え、己を乗り越えて、飲むお酒も最高だったことを付け加えておきたい。