知人の夫人がコンビニエンスストア(CVS)でパートタイマーをしており、廃棄する弁当類の多さに辟易しているという話を聞かされた。午前中勤務の彼女は、帰宅時間の昼前に廃棄寸前の弁当を持たされる。1人当たりの配給量5個という日はザラで、4人家族でも食べきれず、哀れ、ゴミ箱行きという末路をたどる。
4万店あると言われるCVSで1日30個の廃棄ロスがあるとすると、全国では120万個。1個300円で計算すれば3億6000万円。1年間なら、1314億円にも上る。
カロリーベース自給率が40%の日本において、食されることなく捨てられる食糧は計り知れない。これに外食産業や食品スーパーマーケットなどの他の小売業、また各家庭から出される廃棄商品を加えれば、小国くらい簡単に養えてしまうのではないか。
車谷長吉さんの直木賞受賞小説『赤目四十八瀧心中未遂』の舞台となる兵庫県尼崎市で、日雇労働者が期限切れの弁当を二束三文で買うシーンが登場しているように、実際、弁当の廃棄をめぐっては闇ルートもあるらしい。期限切れの商品を即座に捨てるよりは、ましな気もするが、こちらは人権問題とかかわってきてややこしい。
廃棄は、マクロ経済的には消費と同じ扱いになるから、それで構わないという意見もわからないではない。
しかし、やはり無駄な廃棄は、社会悪である。
アメリカ合衆国の第34代大統領のアイゼンハウアーは、「すべての銃、すべての軍艦、すべてのロケットは、結局のところ、食べ物もなく飢えている人や着る物もなく寒さに震えている人々からの強奪品である」と言葉を残しているが、身につまされる昨今である。
ただ、そうした中にあっても、廃棄を極力抑えることに努めている企業もなくはない。
焼酎や味噌の量り売りが復活していたり、英国の「LUSH(ラッシュ)」などもシャンプーや石鹸などの量り売りで店舗数を拡大している。
それでもデフレ時代のいまは、モノに対する執着はどうも希薄になりがちで、甥っ子たちに『水戸黄門』でお馴染みの水戸光圀公が米俵の上に腰を掛けていたら、お百姓さんに怒鳴られたというエピソードを話しても、「なんで?」ときょとんとしている。
私が子供のころには、「日本は原材料に乏しい国なので加工貿易を強いられる」と幾度となく習ったものだが、あれは幻だったのかしら?