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『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

 『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という詩がある。

 ナチスがいろいろな団体を攻撃して勢力を拡大していった時に、部外者として無関心を装っていたら、やがて自分が迫害されるようになり、その時には一緒に反旗を翻せるだけの力を持った仲間がいなくなっていたという内容だ。

 書いたのは、ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラー。以下、邦訳(ウィキペディア)を記す。

 ナチスが共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。

 ついでナチスは社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。

 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。

 ナチスはついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。

 しかし、それは遅すぎた。

 小沢一郎元民主党党首の裁判を見ていると、この詩の内容と二重写しになる。

 小沢氏は、検察が2度にわたって起訴できなかった案件を検察審査会によって強制起訴された。

 怖いと思うのは、強制起訴をした検察審査会については構成メンバーさえ明らかにされていないことだ。

 この現実を小沢一郎氏に好意をもっていないという理由で、看過している国民は多い。強制起訴の正当性を賛美する大物ジャーナリストさえいるほどだ。

 「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される」という「推定無罪」は、近代法の基本原則だが、これが強制起訴によって、被告人に自らの無実を証明させる責任を負わせるような流れに変わっている。

 極論を言うなら、小沢一郎氏が有罪でも無罪でも、自らの生活には何ら不利を被ることがない生活者が大半だ。

 だが、これを対岸の火事とばかり、見過ごしていた場合、いざ、自分に同じ火の粉が降りかかったときには、ニーメーラーの詩のようなことが起こり、なすすべをなくすということも想像しておきたい。