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第1回

2012年3月28日

あの極限状況の中で
何ができて何ができなかったか

吉田 芳弘

地域社会のライフラインが一瞬にして崩壊したあの衝撃から、1年。まさに孤軍奮闘でライフラインを担わざるをえなくなったスーパーマーケットのリーダーは、何を考え、いかに行動したか。1年後の未来から眺めると、地域社会におけるスーパーマーケットの役割も、大きく変化した。大震災その後に、スーパーマーケットの未来を重ねて見えてくるものとは……。

 

「赤いりんご」の原点

 

ウジエスーパー取締役
吉田芳弘 よしだ・よしひろ
大学卒業後リクルート入社、平成16年からウジエスーパー勤務。 現在、総務・人事・広報の他に、障害者特例子会社を経営している。 東北経済産業局農商工連携伝道師など、公職多数。

 ウジエスーパーは、昭和22(1947)年、現在の氏家良典社長の御祖父が宮城県迫町(現在の登米市迫町)で個人創業した青果商が始まりである。そのとき、2代目であった御尊父は、北海道で事業を営んでいた叔父の手伝いのため津軽海峡を行き来しており、帰途には、北海道や東北に立ち寄ってそれぞれの地域産品を持ちかえり、地元で販売されていた。宮城県の北端側、岩手県にほど近い創業地は、「登米」の名の通り、県内有数の米産地であるが、決して裕福とは言えず、なかなか手に入らない北海道や東北の新鮮な地産品はことのほか喜ばれた。特に、東北のリンゴは人気だったという。いま「赤いりんご」が当社のシンボルマークとなっているのは、そのときの原点であり、「お客様に喜ばれる商売をしよう」という創業の精神を込めたものだ。

 

真に底力を試された機会

 

 その後、次第に加工食品や冷菓の卸しへと業務を拡大していき、昭和57(1982)年、スーパーマーケット1号店を開店。地域の皆様とのふれあいを大事に、鮮度と品質にこだわったスーパーマーケットとして地道に歩み、宮城県内のみに31店を展開する、宮城県民による宮城県民のための食品小売業となって現在にいたっている。

 

 決して派手ではないが、地域の皆様のためのスーパーマーケットとして、いつも当たり前にそこにある、身近な存在と感じていただけていると自負している。そんなウジエスーパーにとって、2011年3月11日の震災は、あらゆる意味で、真に地域の食を預かる企業としての底力が試された機会であったといえる。

 

 できれば、起きてほしくなかった災害であったが、これ以上ないほどの極限的な状況を経験し、乗り切ったことは、ウジエスーパーにとっても私にとっても、大きな財産になったことは確かである。

 

極限状況での経験で見えてきたもの

 

 想像をはるかに超える極限状態の中で、日々刻々と変わる状況に翻弄されながら、本当に想像を絶する経験をした。その中で、たくましく生きる人々の強さ、気高さに触れる半面で、きれいごとではない人間の本性も目の当たりした。それら、あらゆる事態にたいして、自分たちが対処できなかった悔しさ、いたらなさ、非力を感じたし、本当に大切なものが見えたり、本当の信頼や正義と呼べるものにも出会った。

 

 さらに、また、自らの食品小売業という仕事の中で、極限状態の危機の中にあったからこそ見えたものもある。ぎりぎりの状況の中で、何をすべきで何をすべきではないのか、何に対処できて何に対処できなかったのか、あるいは、食品小売業の本質とは、その価値と限界、業務の制約の中でいったい何ができて、何ができなかったのかも感じた。

 

 そうした体験を語り継ぐことは、なにがしかの意味があると思い、ここに、私が経験した震災からの1年間を振り返ってみたいと思う。

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